2024年8月8日『百日行願、六日目』

百日行願、六日目。
今日も命の御礼を。

3日前に書いた(3日前の記事はこちら)その遺族が参拝されました。

故人の意を汲み、葬儀は無し、海への散骨とお届けされた。

ただ、先立つ別の家族の願いもあり、数年前に求められた墓地への埋骨も考えているとか。

そして、遺された別の家族との意思疎通もままならないため、みたま祭りも未定のまま……と。

金光教の教祖様は、
葬儀は簡単でいい、みたま祭り『だけ』は大切にせよ
という趣旨の言葉を遺されました。

私はとても理にかなっていると思っています。

そもそも、お墓参りは誰のため。
先祖の供養?
私は違うと思っています。

亡くなられた氏子の御霊(魂)は神様の元へと帰るだけ。
助かっていない御霊などない、それが私の考えです。

じゃあ、何のためのお墓参りなの?先祖の供養は?

それは、遺されたものの心の拠り所だと思っています。

お父さん、今日も元気で生きているよ、ありがとう
お母さん、いつも見守ってくれて、ありがとね
私は今日も元気だから、安心してください

そうやって、生きているもの(遺されたもの)が安心して生きていることを報告する場になるから、
あの世で先祖は安心する。

安心するのは命の授け元である神様も同じこと。

だからといって、安心させるための信心では本末転倒と言うか、
先祖を無理くり安心させても、生きている人間が安らかに過ごせていないのなら、そんなものは神様も先祖もお見通し、そう思います。

だから、信心する。
吐き出して、吐き出して、吐き出して、おかげをいただいて、あぁ今日も命を頂いてありがたいなぁと思えるそのときまで、吐き出して。

ここまでの話を聞いてどう思われますでしょうか。

お墓が必要な理由が私には見いだせないのです。

お墓をことさら大切にする人の話に共感できないのです。

もちろん、祈りを捧げる場としての墓地なら(そして、今日も安心して生きられているよと報告を申しあげる場なら)、必要なものとは思うのですけれど……。

それは、教会でも事足りるなと思ってしまいます。

ましてや、無縁仏や、家族が全員亡くなっても管理してくれるお墓があって安心だわ、なんてそんな気持ちのためにお墓を求めているのだとしたら、それの何が安心なのか、本当に安心ですかと訪ねたいと思ってしまう次第です。

死んだあとのことなど、誰にもわからないのに。

そんなことを気にしていったいどうする気なのだろうかと。

このあたりは、
死ぬる用意をすな、生きる用意をせよ
とも教えられているとおり。

いかがでしょうか。

あらためて、
葬儀は簡単でいい
みたままつり『だけ』は大切にしてくれ

と命を賭して願われた教祖様の願い、ひいては神様の願いを頂くと、
お墓とみたま祭りの考え方、これはキチンと整理していかないといけないよなぁと思います。

そして共有していかないと、と。

ここまでを、今日お参りされた遺族に聞いていただきました。

私から、伝えることは伝えたつもりです。
あとは、決めるのはその氏子であり、その家族。

信心が繋がる選択になりますようにと、切に願っております。

追伸:もっと言えば、
「死んだら布にまいて川に流してくれ」
これが教祖様の真意です。

でも、それでは周りは納得しないだろうし、
そんなことしてしまったら行政的にも問題になるだろうから、
葬儀は簡単でいい、と言われた次第。

川に流したら、骨すら残らない。
それでも良いんだと私は受け取りました。

ただ、
みたま祭りだけは大切にしてくれ
と。

生きているものの信心が何よりも大切だから。

信心とは、
わが心が神(先祖含む)に向かうこと

大切にするべきことは、
お墓ではなく信心
そのように思うのです。