No.10|百日行願10日目(2024年8月12日)
百日行願、十日目。
今日も命を頂きました。
ありがとうございます。
昨夜お参りされた氏子が次のように言っていました。
願っていたことが叶ったお届けで、
「神様のおかげです、そう感じることが多々ありました」と聴かせて頂き、ありがたいなぁと思いました。
世の中、起こり来ることを「神様のおかげです」そのように思えたら、思い悩むこともなくなるのでしょう。
すべては神様のおかげですと思えるようになるまでには、それ相応の稽古が必要です。
ただし、稽古を積みさえすれば、どなたでも「神様のおかげです」と言えるようになります。
それは私が保証します。先を楽しみに、稽古に励みたいものですね。
その際、十分に気をつけなければいけないのは、すべては神様のおかげだからといって、願ったとおりにならなかったとき「罰が当たった」とか「神も仏もあるものか」と思ってしまうこと。
私にも心当たりがあります。
すべてうまくいっていないとき我慢できずに「神様なんだから何とかしてみろよ」と啖呵を切ったこともありました。
それだけ、人間というのは弱いものだということも、願ったとおりにならなかったときに神様を恨んでしまいかねない自分だということも、先ほどの稽古に組み込んでいかなければいけないと思っています。
よほど元気なうちからお稽古に取り組めたら良いのですが、元気なときほど信心とは程遠い生き方になるのも世の常です。
困ったときの神頼みが出発点になるのも致し方ないことなのかもしれません。
私はと言えば……、
願ったとおりにならなかったとき、私は極力シンプルに考えるようにしています。
それが再三申し上げている『命』です。
命ほど根源的なおかげはありません。ですから今日も命を頂いたということを「神様のおかげです」と思えたなら(ありがとうございますと御礼心になれたら)、もはや立っている位置が変わるでしょう。
立っている位置が変われば、見える景色も変わってくる。
自ずと、心持ちも穏やかになっているはずです。
あぁ今日も命を頂けばこそ、こうしてご信心ができるのだよなぁ
……と。
ですが、根がどうしようもない私ですので、それこそ腹を立てたり、油断をしては失敗を重ねたり、そのことに落ち込んだりと忙しない毎日を送っております。
そんなときも、いやそんなときこそ『わが命』に眼差しを向けて、「ありがとうございます」と神様に心向けるようにしているのです。これがお稽古です。
心配せずとも、誰でもできるようになります。私も取次者の先生を通しておかげにして頂きました。命を喜べる人間にして頂きました。
おかげさまで、半ば人生を諦めていた私も、現状「習慣が変わる」くらいまでお育て頂いたのかなぁと。とても心穏やかに過ごせております。ありがたいことです。
今日も命を頂いたお互いです。その命をどう使うかはそれぞれに課せられた命題だと思います。
ぜひ「すべては神様のおかげです」と言い切れるような、そんなありがたい人生になられますことを、陰ながらではありますがご祈念させて頂きます。
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