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「はぐれ不安」とSNS

家族、友人、恋人、知り合い。
絆をつむぎ、愛を育てる関係性だ。


物心ついた時から、「愛着」の築き方が分からないでいる。
どのタイミングで何を話し、そして聴けば会話が続くのだろうか。


本質的には、程よい距離で接したい。
だが、繋がっていられるかの不安、もっと言えば絶交の恐怖によって、執拗に距離を詰めようとするきらいがある。



SNSやメッセージアプリに人がヤモリのごとく張り付くのは、そういった「はぐれ不安」が私たちの心を突き動かしているからだろう。
本当は主体性をもって、目の前のリアル、FacebookではなくFace to Faceを楽しみたいのに。
そう分かっているのに、スワイプする手は止まらない。

スワイプは、はぐれ不安を取り除くための行為であり、それ自体に依存性があると思っている。


ある日突然、どうしてかきっかけすら忘れたが、幼馴染との再会を果たし、親密にやりとりをするようになった。

「あるところには、あるものだ(この場合、人間関係において)」という小さな気づきが、大きな安心になっていた。
コミュニケーションツールを介さない出会いをすることで、「はぐれ者」になる自分をありのままに許すことが出来る気がした。

さらにどういう訳か、再会の日を境にインスタグラムや他のアプリにも執着しなくなった。
スクリーンの中には、求めているものは無かったことを自覚したのだった。



そう言えば、もはや実らぬ片思いのように長く慕っていたレザーブーツが、よりによって近所の古着屋に置かれているのを偶然に発見した。
なぜ、私が引っ越したタイミングで、そしてあの日に、まるで用意されたかのように彼は現れたのか。

オンラインショッピングでは味わえないスリルだった。


やはり、あるところには、あるものだ。
そういう偶発性に身を任せている時の方が、人生は楽しく、彩が多い。


冬の初めに迎え入れたサクラソウも、
随分と背が高くなった。
件のチャッカブーツ。
中古品の好きなところは、
誰かが使ったことによって、
その人間味、愛着がモノに残っていること。

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