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そのものを見る

もう不自由なく生きていけてるはずなのに、無いものねだりに忙しく、隣の芝生は青く見えるし、ソメイヨシノと自分を比べては儚い溜息をつく。
自分はどうやら、抽象的で個人的な感覚に圧倒されすぎる事が多く、そうなればその場のリアリティを感じられないことが多いようだ。
今でこそ落ち着いているが、少なくとも2年ほど前には、もはや目に見える対象全てに、邪推とも呼べるような眼差しを投げかけていた。
内的自然や純粋な感覚を、皮肉にも鋭敏な感性によって見失っていたのだった。


最近は、そのものをだだ見つめることに注力している。
幾らで買った、この間ぶつけて汚した、実は使いにくいと思う、などが湧き出す前に、それを制してただ、見る。

そうすると不思議な体験だが、それに対し素直に、穏やかに対面でき、褒める言葉すら浮かんでくる。


目を凝らしていると、感情が強要される出来事がなんと多い事か。
賑やかさ、善意、誰それの失敗に、必ず高揚し、嬉しがり、悲しむべきなのだろうか。
もちろん、心からそう感じるなら話は別だが。


そんなもんだから、自分でも気付かぬ間に、時と場合における感情を必ず見つけなければいけない、と焦っていたのかも知れない。

人生の意味より、人生そのものを愛せ、というわけか?

カラマーゾフの兄弟 ドストエフスキー著


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