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リセット

自分はいつも、昼を過ぎたころから心身ともに活動的になる。
ポケモンの、レジギガス顔負けのスロースターターだ。

ただ、その活動意欲の矛先がいつも乱暴で、いきなり大食いになったり、それまで脳裏に一瞬すらもかすめなかったジャンキーな動画を視聴したりする。
ジャンキーに走れば、そこから抜け出すのは難しく、穏やかな時間すら遠ざかってしまう。

思ったのは、このジャンキームーブは、身体を動かしたいのにそれが出来ていないがゆえの誤作動ではないかということ。
確かに、仕事へ行く日は結果的に1日に6000歩はいつも歩くことになるけど、休みの日はまったくもって歩かない日も多い。


この身体活動意欲のエラー仮説を確かめるため、身体を動かしてみようといつもの緑地へ出向いて行った。
今回は「散歩」というより「冒険」のような意味合いがあり、少し力を入れて歩いたし、ルートも決めず自由奔放に動き回った。
持って行ったのは水筒だけで、データや時間という概念が入ることを許さなかった。


自然を凝縮したあの匂いが緑地の中には立ち込めていた。
3~5回ほど大きく口から息を吐くと、その反動で身体は空気を一気に吸い込もうとする。
吸い込むときに芳醇な、自然の香りが身体中に駆け巡る。
この空気の入れ替えを繰り返すたびに、体の芯からすっきりして、凝り固まった「気」が滑らかに流れていく感じさえした。

この大げさな呼吸をしていて気づいたが、どうやらこうやって吐き切ると、嗅覚もリセットされるようだ。


視界は、見渡す限り緑色で、冬の葉のない木は鋭利すぎて少々怖いが、数日前の雨に濡れたままで艶が出ている落ち葉や、今日は曇りで、晴れの日よりも薄暗い木の陰に目が釘付けになった。

いつも眺めている山(生駒山脈と和泉山脈)は曇っており全く姿が見えなかった。
輪郭すら見当たらず、いつもそこに居る者が忽然と姿を消したようで、寂しさと不安が現れた。

とはいえ遠くを見渡すことは目の保養にも効果的だ。


しばらく歩いていると、キジバトがひとりでうろついていた。
街でよく見るハト(ドバト)と比べると、より自然に溶け込めるような模様をしている。
警戒心が無いのか、私が近づいていても気にせず、枝という枝から振り落とされて重なっている落ち葉の下を、一心不乱にほじくり返しているから笑いそうになった。


ほどなくしてどこかへ向けて飛び立ち、遠くへ行く彼を見送って歩いていると、足元に大きな薄灰色の猫が寝そべっていた。

踏んでしまいそうになったうえ、そんな所に彼女が居るなど懸念すらしていなかったので、その日の最も大きな驚きになった。
昼下がりのこのエリアには滅多に人が来ないことを、長らく過ごして来た経験から分かっているんだろう。
少ないことを分かっているから、私も来たのだが。

思えば、こういった一連の驚きや自由な考えが、淀んだ感覚のリセットにもなった。


満足して戻ると、どうやら30分ほどしか経っていないらしかった。
ものの30分ほど自然と戯れるだけで、心と自然が呼応して、様々な感覚と出会えるものだ。


ーーーーー


時々、生き方をそこら辺の鳩から教わることがある。

鈍感なのか、その環境に慣れてしまったのか、意図的なのかは分からないが、周りがガヤガヤしていても、セカセカしていても、彼らは彼らのペースを決して乱さない。

目つきも、執念深く目の前のことだけに集中しているように感じられる。(そんなことを考えながら例のキシバトをじろじろ見つめていると、不審者からの眼差しに耐えかねたのかどこかへ飛んで行ってしまったのだった。)


人間が完全に自然へ還るのはもう不可能だろうから、せめて街中でも、鳩のようにこれほどにひたむきで、かつ自分のペースを乱さないように生活をしていきたいと願う。


束の間の日差し。
むしろ、かんかん照りではない日の方が、
太陽のありがたみを強く感じられる。

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