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おろかものとおろかもの 11

佐藤直樹は、横須賀で途方に暮れていた。

3月28日の首都圏爆撃から1週間、事態は各所で進行していた。
情報源はSNSと街頭にいつの間にか設置されたテレビ・ラジオ。

と言っても都内キー局は全く機能していない。地方のローカルテレビ局が、国内の情勢を断片的に伝えている。
一番情報が的確で、且つ広範な範囲をカバーしていたのは海外メディアである。
海外のニュースサイトを確認して、ネットの翻訳機能を活用しながら情報収集をしていた。横須賀からは動けない。ネットが繋がる場所が限られていた。
合衆国の勢力圏内、横須賀や浜松、札幌などはネット接続が復旧した。半島のサイバー攻撃から、主要地域だけ優先して復旧させたのである。
西日本の情報は断片的だった。あちらからの情報発信がない。半島と、中国が独自に電子網を構築しつつあるようである。統制国家による支配がはじまりつつある。
当然、佐藤の妻、両親、知り合いとは何も連絡が取れないままだった。安否すらわからない。緊急掲示板に書き込みをし、情報を呼び掛けたが、どのスレッドにも近畿圏からの返信はない。

佐藤は疲弊していた。
電車や交通機関でとりあえず近畿の方角を目指そうとしたが、爆撃当日はライフラインが完全停止状態で、品川まで歩いていくのがやっとだった。
2日かけて、徒歩や乗り合いのバス・タクシーなどで何とか横浜まで辿り着いた。しかし、そこから交通機関はストップした。国連軍と合衆国軍が規制を掛けたからだ。横浜駅のコンコースで4日過ごした。

合衆国軍による抑止力が功を奏し、横浜、横須賀にはまるで何も起きていないような日常が拡がっていた。コンビニもある、レストランもある、ホテルも通常営業。装甲車や戦車が道路を交差する光景だけを除けば。
ただ、利用者はすでに軍関係者やマスコミ、横浜を起点に統治政府を計画していた国内外の政府関係者に制限され始めていた。


佐藤は身なりはスーツだが、1週間近くシャワーも浴びていない。よれよれのシャツと無精ひげ、すえた臭い。店の中には、中々入りにくい。


佐藤はコンセントを求めてさまよい、結果、中華料理店の軒先、裏通りにある壁埋め込み型のプラグ挿入口を発見した。
飲食店の従業員は皆黙認している。
ふと顔を上げる。
そこらじゅうに、佐藤と同じようにただぼうっと佇んでスマホの画面を見ている人がいた。おなじように情報端末を使う為に、電源を拝借する人々。

裏通りに広がる青白い顔。ディスプレイの反射した顔は不気味に人々の顔を照らす。

情報端末に依存しているわけではない。皆家族の安否が知りたいだけだ。
動きようもなく、やれることもない。相手の応答もない。


何も出来ない絶望と、体力的な疲弊と、底知れぬ絶望。

佐藤の思考力は次第にあいまいなものになっていった。

現代版 打海文三『応化クロニクル』を書こうとふと思いたち、書きだしました。支援・応援は私の励みとなります。気が向いたら、気の迷いに、よろしくお願いします。