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おろかものとおろかもの 21

おろかものとおろかもの 21

佐藤直樹は、いわき市で、実に淡々とした日々を送っていた。


横須賀からいわき市に「難民」として移送されてきたが、自分の立場や考えていることは変わらない。
自分たちの妻・子供・家族に会いたい。
せめて安否だけでも知りたい。
そこに絶望的な答えしか待っていないとしても、何かしらの反応がなければ佐藤も行動を移せないでいた。

いわき市は、太平洋側に面した良港であり、合衆国・国連軍の軍事拠点・経済拠点として地政学上重要な場所であった。
その為、空爆は意図的に軽微に留められており、海兵・陸軍上陸後即座に拠点としての復興・開発が進んだ地域であった。福島第一原発から比較的距離が離れており、ぎりぎり汚染区域を逃れたことも幸いした。

難民登録者は、基本的に難民キャンプ内でしか生活出来ない。


しかし、合衆国を主体とした国連委任統治機関は、戦災発生時に、一極集中した人口を移動させたのちに、日本人を「自国」の復興労働力として活用する方針を採用していた。
何か専門的技能を持った人間は、難民統治事務局を通して、又は事務局側からの要請でキャンプを離れる認可を貰い、いわき市街に出て急ピッチで建設が進む工場や住居施設、商業施設へと散って行った。
建設業界や工業メーカーのホワイトカラー・ブルーカラーの人間が重宝され、難民というひどく不安定な立場でやきもきしていた人たちは、新しい環境と仕事を与えられると、旺盛に働きだした。
復興のスピードは目に見えて早くなった。

佐藤はその中では、製薬業界のいわゆるMR職にあった人間としては、優先順位としてはあまり早い方ではなかった。
勿論医療は衛生環境が低下した状態においては重要な地位を占めていたが、佐藤自身が患者を診れるわけではないし、医療行為も行えない。医薬品の知識があっても、処方出来るわけでもないし。

かといって、働きざかりの年代である自分ならば、需要は多いのではないか。そう考えて何度か難民キャンプから離れる手続きを申請したが、横須賀で負った怪我を理由に却下された。

戸惑いと不自然さを感じながらも、それならばとキャンプ内のボランティアには可能な限り参加した。
孤児の面倒、配給食糧の運搬、清掃活動。
梅雨が明ける頃になると、日々の活動はある程度固定化され、佐藤は難民としての日々を規則正しく生活していた。

現代版 打海文三『応化クロニクル』を書こうとふと思いたち、書きだしました。支援・応援は私の励みとなります。気が向いたら、気の迷いに、よろしくお願いします。