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おろかものとおろかもの 25

その日は毎週一回、必ず行われる佐藤の検診日に起こった。

この日は朝から佐藤は機嫌がよかった。
殺伐とし、行き場のない感情が渦巻いている佐藤にとって、マギーと一対一で会える、話せる機会が唯一、心の平穏をもたらしてくれるのだ。

佐藤は難民キャンプ内の、いつもの診察室へと入って行った。
ささくれがちな今の心情を悟られることがないよう、表情に笑顔を作りながら診察室のカーテンを開けた。

マギーはタブレットタイプの電子カルテに目を落としながら、診察室のパイプ椅子に腰掛けていた。いつもと何かが違った。表情は暗く、右眼の上、金色の眉辺りには外傷を手当したと視られるガーゼが会った。

マギーはどこか引きつった笑顔を浮かべながら挨拶をし、いつもの定期健診に関する質問を述べた。
「ハイ、気分はどう?」
「上々だよ」
「そう。不眠は?」
「ない。しかし、意識の途切れは相変わらず。一週間に一度は必ずある」
「痛みはない?」

お決まりのやり取りが続く。
いつものマギーなら、佐藤の目を見て、微笑みを浮かべながら問診してくれるのだが、今日は口調こそ柔らかいものの、佐藤に視線を向けようとしない。

「怪我をしたのか。大丈夫かい?」
佐藤がそう語りかけると、初めてマギーは佐藤の顔に一度目を向けて、少し驚き、悲し気な表情を浮かべたあと、それを打ち消すように口元に笑顔を浮かべながら、

「シティの巡回診察中に瓦礫が落ちてきちゃって。嫁入り前の顔が台無しになるところだった」

苦笑しながら、突発的な事故で負った傷であることを、マギーは説明した。
佐藤はなんとなくマギーが嘘を付いていることが分かったが、彼女が嘘を付くのだから、何か理由があるのだろう、自分はここでそれを追求する権利もないし必要もない、ということを理解し、

「そんな多少の怪我で、君の美貌が永遠に失ってしまわれることは全くないと思う―」

そんな軽口を込めたいたわりの言葉で言葉を掛けようとした時に、不意に佐藤の背後から診察室のカーテンが開く音が聞こえた。

後ろを振り返る。難民キャンプ内の住人であることを示す、佐藤と同じ色をした赤色の紐に青色のIDカードをぶら下げた中年男性が四人。
一気に診察室に入ってきた。
目だし帽を一様にかぶり、どこの誰だかわからないようにしていた。
急患ではないようだし、診察室のカーテンを突然開ける正当な理由はないだろう。

佐藤とマギーは突然のことに動揺しながらも、中腰になり、同時に立ち上がろうとした。

男達の行動の方が速かった。
二人は佐藤の背後に立ち、両肩を抑え、立ち上がろうとする佐藤を組み伏せて体重をかけた。もがく佐藤に一人は頭と口を圧迫して、声が出せないようにしてしまった。
残り二人ははっきりと、しかし自分たちの欲望を隠そうとせずに、マギーに襲い掛かった。正面から肩を押さえ、頸を手で絞め、残りの一人は白衣と灰色のパーカーを一気にまくり上げ、細身のジーンズの中に手を入れた。男達の目的は明らかだった。


凶行。このままではマギーがレイプされてしまう。
自分と同じ、迷える、弱きはずの難民たちによって。
佐藤はもがぎ、必死に暴れて、抵抗しようとした。しかし、大人の男たちは佐藤に更に体重を掛けて、更に抵抗出来ないようにした。
頭に血が昇る。自分の目がかあっと熱くなるのを感じる。
首を上げて、何とか叫び声をあげようととしたとき―
プツン―

そこで佐藤の意識は途切れた。







どれくらいの時間が流れたのだろうか。
いや、流れなかったのだろうか。
不意に佐藤は意識を戻した。
体は診察室の地面に横たえたたままだった。
ぼんやりと目を開ける。何かに濡れた地面が見える。
時間間隔が分からない。あれから何秒、何分、いや何時間自分はそこで体を横たえていたのだろうか。
徐々に身を起こし、体勢を四つん這いにし、改めて周囲の状況を把握しようとする佐藤は、まず匂いを感じた。
鉄の匂い?いや、違う。血の匂いだ。それも、むせ返るくらいの。

まだぼんやりとする頭を起こして視線を定める。
マギーはその場にへたり込んでいた。服は乱れてはいたが、暴行はされていないようだ。

マギーの両隣と、佐藤の両隣には男達がいた。
いや、少し前に人間であったであろう何かがあった。うつ伏せにして倒れていた、
彼らの頭に当たるはずのところには何もなかった。頭があったであろう部分からは、その頸だけを残して、とめどなく血が流れていた。
診察室の床を一面、赤色に染めていた。

なんだこれは。
佐藤は今の状態が全く把握出来なくなっていた。
大量の血の匂いが、佐藤の思考を更に混乱させた。
何故彼らが死んで、いや殺さているのだ。
何故自分は助かった。
そしてそれに。
自分の両手は(おそらくそうであろう)彼らの血で赤く染まっているのは何故だ。
何故、自分はこの溢れ出ている血の匂いに欲情しているのか。
汚らわしいはずのこの男達だった物から流れ出る血液を、飲み干したいと考えているのか。

返り血で薄化粧をしたマギーは、茫然とした表情で呟いた。

「想定外だわ。被験者の効力発生が実験段階よりも早過ぎる。」


言葉の意味を理解しないまま、佐藤はゆっくりと立ち上がり、天井を見上げて、これまでの人生で発したことのないような声で叫んだ。

咆哮が木霊した。空間全体を、いや佐藤を中心として、この世界全体を震わせるような衝撃だった。

現代版 打海文三『応化クロニクル』を書こうとふと思いたち、書きだしました。支援・応援は私の励みとなります。気が向いたら、気の迷いに、よろしくお願いします。