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戦前静岡茶広報史の一場面(6)

瀧恭三の出自

前回、私は深尾韶の証言を引用しながら、「出身は或いは藤枝方面では無かったかと推測できる」と書いた。その頃読んで目にとまった記事でそう考えた記憶はあるのだけれど、しばらく間が空いているうちに、どこに書いてあったのか忘れてしまった。メモもコピーも、気づいたときにしないと、取り返すのはどんどん困難になる。
それは情けない話だが、藤枝出身であることは間違いなさそうなので、少し、補足しておこうと思う。
ヒントはやはり山雨楼(村本喜代作)の証言だった。高木来喜について触れたときに引用した『静岡今昔物語』のうち「大正の画壇」という章、瀧凌雲の記事。

滝凌雲は田中藩士、名亨、字士謙、はじめ藤枝宿の大塚翠崖に学び、後滝和亭の門に入り、漢学を藩儒石井賴水、吉野金陵、石野雲嶺に師事し、羽倉可亭にも教を乞うた。この金陵は有名な勤王儒者である。従つて凌雲の画筆は気品に富んでおつたが、大正時代にはほとんど描かなかつた。小説や随筆を書いて有名だつた静岡新報記者の滝閑村はこの人の伜である。

『静岡今昔物語』

本書は1953年の刊行で、回顧談だが、山雨楼と瀧は交流があった可能性もあるので有力な情報だろう。またしても茶業からは話がそれて行くことになるが、今回は滝凌雲について調べてみる。

瀧凌雲

さて、画家、瀧凌雲は、人名辞典類にも記事がある、そこそこ有名な人物らしい。例によって、新しい研究成果を後回しにして、NDLデジタルで探せる情報を確認しておこう。ざっと見た限りで、まとまっているのが1931(昭和6)年版の『静岡市史』、色々詳しいのは石井楚江 (真一) 著『静陵画談』(静岡民友新聞社 1911(明治44)送信資料)らしい。まず、基本情報ということで、市史から当該記事全文を引いておく。

 瀧凌雲は田中藩の人、弘化三年2506十月に生れ、名は亨、字は 士謙、凌雲と号した。初め藤枝の大塚翠崖に学び、明治元年藩主が安房国に移るに従ひ、凌雲亦同地に赴き、僻地師を得る能はざるを以て華山・椿山或は明清諸家の作画を模写して其技を研き、同七年滝和亭に就き、専ら六法に従つた。同三十五年和亭歿後、居を静岡に移して聖林・青崖等と共に本県画壇の人となつた。又凌雲は漢学を藩儒石井賴水・芳野金陵に、詩文を石野雲嶺に、篆刻を羽倉可亭に修め、尚ほ書画鑑定を能くした。凌雲は木更津・千葉諸県に歴任したが、後浮世新聞・青森新報等の編輯に携はり同二十三年東奥日報を創始した。大正五年九月一日静岡の自邸に於て筆を手にしつゝ歿した。享年七十一。

『静岡市史』第4巻,静岡市

これを読むと、単なる画家ではなく、新聞にも関わったらしいこと、また、各地を転々としていたことも見えてくる。恭三を知る上でもとても興味深い情報である。
石井楚江著『静陵画談』の記事前半は『静岡市史』とほぼ重なる情報で、おそらく『市史』はここから取ったのだろう。長くなるが重ならない後半部分を抜き出してみる。

●凌雲又書を能くし、李北海の神髄を得たりと称すれども惜しいかな書は画のために覆はれ、或は又徒に画の邪魔となる位のものだと云ふ凌雲、素多趣味多能の人、嘗て千葉に鑑識家として名あり、東京の書画商等千葉に至るや必ず先づ凌雲を訪ひ、目して書画の関門と呼ばれた程であるが凌雲の志は単に文芸のみに止らず其の藩に在るや藩政の改革に尽力し木更津、千葉青森の諸県に奉職して又令聞があつた。
●けれども性直硬、自ら守るの固きに過ぎて長上に容れられず、野に下つて浮世新聞に入り青森新報に転じ明治二十三年青森県下に今の東奥日報を創始し常に諤々の言論を鳴らし、其間又民間事業に手を出して会社を組織し青森県深浦久六島に探鮑所を経営したこともある、併し乍ら多くは失敗に帰した。
●凌雲の生命は勿論絵画に在り、絵画の中でも最も特異とするところは花鳥である。花鳥は之を和亭に学びて殆んど其の神韻を伝へ壮年作るところのものゝ如きは和亭其まゝだと云はれて居たが和亭歿後眼を元明諸家に着け、筆意漸く和亭を脱して花鳥ならぬ山水人物にも多少の筆を染めるやうになつた。
●凌雲、茲年六十六歳、今は静岡市二番町に屏居して専ら書画篆刻を娯み、其跡を韜晦して又利を追ふの心なければ世間凌雲の名声を知るもの鮮しと雖ども、和亭及び和亭の師大岡雲峯を通して南宋の画法を学んだ人だけに、花卉草木に於ては本県南画界一方の驍将たるを失なはない。
●凌雲、性闊達洒落、老躯尚ほ钁鑠たるものであるが、文芸に関しては謙遜して誇らず、未だ自ら足れりとせず、常に文芸は終りなきを以て生涯脩業と心得、飽く迄勉めねばならぬと語り孜々彩管を執つて又利財の念なきは感ずべきである。
●凌雲の次男に閑村在り、小説和歌等を能くし青年作家として一時中央文壇にも知られて居たが、今は静岡公報社に記者を勤めて居る、昨年刊行された小説「只の人」は彼の傑作である。

『静陵画談』

凌雲の人柄が見えてくる。それはそれとして、長く引用したくなる文章が良い。筆者石井楚江に目を転じたくなるが、既に本題から相当ずれているので、ここは留まっておこう。ただ、或いは瀧閑村と関わりがあったかも知れない経歴ではある。これはまた別の機会に。

官吏、瀧亨

前引、石井楚江の文章にある「性直硬、自ら守るの固きに過ぎて長上に容れられず、野に下つて」はとても気になる表現である。歿後、房州長尾藩の記事にも、

瀧亨。初称謙二。号凌雲。有巧思多才芸。殿中之自鳴鐘弊矣。当時無修之工人。凌雲因解其機関而理之。人称其智維新後為吏。豪放不能久居其職轗軻不遇。晩来藤枝。更移静岡以終。有遺稿未梓。

『稿本長尾藩史譚』(池谷盈進、1931)

と、才能(と性格)故の不遇な生涯を見て取ることが出来る。

さて、官吏であった事は、官員録などをたどれば少し追跡できる。
明治9(1876)年4月は、千葉県で少属。明治10年11月の千葉県職員録では八等属、「千葉県士族」。
この頃の瀧の仕事として、『千葉縣治一覽』をNDLデジタルで見ることが出来る。
NDLデジタルではその後空白があって、
明治18年3月には、青森県におり、明治21(1888)年までは確認出来る。
この明治21年は、憲法発布の前年ににあたり、「大同団結運動」の後藤象二郎が東北遊説を行った影響もあって、大同派の活動が盛んになったようで、同年12月15日、青森市で行われた集会の参加者に瀧の名前が見える(東奥日報社 編『青森県総覧 : 一名青森県四十年略史』1928)。

「東奥日報」の瀧

「東奥日報」は、この集会の直前、明治21年12月6日、青森に於ける大同派の新聞として創刊されたのだったが、さて、瀧はそれにどのように関わったのだろうか。
このことについては、既に「研究」がある。
伊藤徳一『東奥日報と明治時代』(東奥日報社 1958 NDLデジタル送信資料)は、タイトルの通り、現在も続く東奥日報の、前史から始まる明治期の歴史を広く扱った風変わりな社史で、読み応えがある。
まず確認しておくべきは、瀧は、東奥日報の正式な重役ではなさそうだ、ということ。その上で、重要な関わり方をしている事が検証されている。

本書では、明治21年と29年の項で瀧亨について触れている。というのは、創刊から29年まで使われた題字の筆者が瀧だったのかどうか、と言う検証が行われていたからで、その過程で、瀧自身が社員或いは記者だったのか、が問題になってる。
簡単に結論を言えば、
・創刊時の題字(本書巻頭口絵にあり)は瀧の筆で間違いなさそう。
・瀧は社員でも記者でも無く、外部の協力者として文芸関係の記事を書いていた可能性がある。

と言うことらしい。
その検証の過程で引用されている明治23年9月28日「瀧亨氏送別会」という記事には、

同氏は明治十六年初めて当地に参り爾来八ヶ年間或は新聞業にも従事し或は書画、詩文、囲碁、篆刻等の仲間に交際を求め其朋友知己も尠からざる由なるが愈々今回帰京のこととなり来月二日頃を期して当地出発の筈なりといふ。

東奥日報と明治時代

とある。記事中、役人であった事に触れていないのも妙ではあるが、ここまでで、青森での消息がかなり見えてきたように思う。
またしても、棟方蠖山など、周辺人物に興味がわくのだが、これも今は追わずにおく。

あらためて、瀧恭三。

さて、そろそろ小括をしよう。
前回書いたように、閑村瀧恭三は、明治一桁生まれと想像できる。対して、父亨・凌雲は、田中藩主に従い長尾藩に移った後、千葉で官吏になって、少なくとも明治十年頃までは千葉県におり、その後青森に移っている。つまり、恭三は藤枝ではなく、千葉県で生まれた可能性が高く、青森を経て、或いは東京も経験し、藤枝、静岡と、父に従って転々とした可能性が高い。静岡生まれという深尾韶の証言には疑問が生じるが、北海道にもいたのもあり得そうな話で、流浪と不遇は父のこととして、事実なのだろう。
また、高木来喜同様、父も民権派の活動に加わっていたことも改めて確認しておく必要があるだろう。
恭三が田中藩時代に生まれている可能性についてはもうしばらく考えたい。

さて、今度こそ、恭三、滝閑村の文事について、そして、茶業広報に戻らねばならないのだが、インターネットでは限界があるので、この続きはしばらく先になる予定。
別の記事を進めながらお待ち頂きたい(待ってる人はいないか)。

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