自己紹介(個人)

前回は会社の紹介をさせていただきました。
初noteにもかかわらず多くの反応をいただきありがとうございます。
今回は私小西祐介自身について書こうと思います。

幼少期(和歌山)

1987年7月3日生まれ
ハリウッドスターのトムクルーズやお笑い芸人のナイティナイン岡村隆史と同じ誕生日です。
和歌山県の田舎の方で生を受け8歳まで和歌山で育ちました。

幼少期に丁度サッカーJリーグが開幕し、私もサッカーにのめり込みました。
地元のサッカーチームにも入り毎日学校でサッカーをして、土日はチームの練習をする。今思えば練習も積極的にやっていた子どもでした。
その甲斐もあり、チームでは背番号10でキャプテンと言う大役(子どもながら)を授かっていたのですが個人的には「背番号は11の方がカッコイイのに」と思っていたのを覚えています。(今でも背番号11が好きです。キャプテン翼だと翼君より岬君が好き)

サッカーに励む幼少期を送っていたのですが、当時父親は野球が好き(巨人ファン)で家では毎晩野球中継が流れていました。
そんな環境なので野球にも興味を持ち、近所でキャッチボールをして遊ぶなんてこともしていました。

そうした日々の中でいつもと同じようにキャッチボールをしていると近所の「おっちゃん」がグローブを持って家から出てきました。
近所のおっちゃんは野球のコーチをやっていて、息子さんが高校野球をやっている。言うことは知っていましたが、話したこともない時です。
※大阪では「おっちゃん」と言うのでそう記載します。

きょとんとしている僕たちにおっちゃんはこう言いました。
「野球好きなのか?キャッチボールしよう!」と。

そこからおっちゃんが仕事を終え帰宅し時間がある時は練習に付き合ってくれる日々。(週3か4くらい)
今思うと感謝しかないです。

ある日おっちゃんから「うちの野球チームの練習に参加してみないか?」と声をかけてもらったのですが、「サッカーやってるんで…」と無理そうな雰囲気を出すと、「無理にとは言わないけど、いつでもおいで。」と言ってもらい、「まぁ参加するだけならいいか」とその週末に練習に参加させてもらいました。

これが小3の時なのですが、ここから野球にのめり込み、結局野球チームにも加入し、サッカーしながら野球もする日々に。
当時はサッカーより野球の方が面白いと思っていたので、もうサッカーは辞めて野球だけにしたいと親に何度も言ったことを覚えていますが、親は認めてくれず。。。
しかし、練習はどちらも土日。試合があるのも土日。
身体は1つ。さぁどうしよう。と悩んでいる中、サッカーチームの監督から野球がしたいなら野球優先で良い。野球が終わってからでいいからサッカーの練習に来てきれないか?
と言う提案ももらい、野球の練習後にサッカーの練習に参加すると言う週末を送りました。(今思うとえげつない体力してますね。笑)

ただある時突然物凄い違和感を感じたのを今でも覚えています。
野球の練習が終わりサッカーの練習に参加しようとグランドまで行った時、遠くでチームメイトが練習している風景を見ながらぼーっと考えこんでしまい、その日は結局練習に参加せず、グランドの陰に隠れてずっと考えていました。

「これでいいのかな?」と

サッカーチームではキャプテンであり当時エースの背番号であった10番をもらっているのに野球を優先している自分がいる。
チームメイトで友達のみんなは一生懸命練習している。

凄い罪悪感が湧いてきました。

帰って親にこのことを話し、サッカーチームの監督やコーチとも話しをして
サッカーは一旦辞めることに。

原体験としてこの部分は結構色濃く残っているかもしれません。

そしてその一年後父親の転勤で大阪への転校が決まります。
夏に大阪に来たのでたしか今ぐらいの時期に決まったのだと思います。

当時転校することがもうこの世終わりと感じるくらい嫌で嫌でたまりませんでした。
学校の友達、野球のチームメイト、近所の幼馴染。
今まで当たり前だった存在、コミュニティから自分がいなくなることが考えられませんでした。

ましてや和歌山の田舎に住んでる少年にとって「大阪」なんてとんでもない都会。
今振り返ってもここの記憶が凄く薄く、どのように友達とお別れをしたのかなど全く思い出せません。
大阪に引っ越す当時になっても行きたくないの一点張りだったので親も困ったでしょう。

幼少期(大阪)

夏休みは大阪で過ごしたものの、友達もいないので家で過ごす毎日。
ずっと高校野球を見てた記憶があります。

和歌山では楽しんでやっていた野球も親からはこんなチームあるよとチラシなど見せてもらいましたが、やる気も起らず。

夏休みが終わり2学期のスタートと共に大阪の小学校に転校。
あの転校初日の緊張感は本当に今思い出すだけでもいやです。

そんな中でも学校生活を送るうちに友達も出来始め、たまたま同じマンションに住んでいた同級生(クラスは別)が野球をやっていると言うことである日そのチームの練習に参加させてもらい、入ることにしました。

名前はジュニアコンドルス。
和歌山の野球チームでは小学校1年~6年生までが同じチームでしたが、大阪では学年別にチームがあり驚いたのを覚えています。

最初の頃はサードを守っていました。
途中どういった経緯かは忘れましたが、ショートの練習をしてショートに転向。
この頃は5番ショートや6番ショートが多かったと記憶しています。

大阪の生活にも慣れ学校生活や野球チームにも馴染んできて小学校5年生に。
小学校は2年毎にクラス替えがあったので5年生でクラス替えがありました。

野球では1個上の6年生チームを補強する為に5年生から1人6年生チームに上げると言うことで6年生チームの練習、試合に参加していました。

周りからは凄いと言う言葉ももらった記憶がありますが、これが結構苦痛で。
6年生チームでは一人だけ下級生(幼い頃の1年の差って凄く大きい)
5年生チームに戻っても普段いないから話題や流行りについていけず。

不安定な精神状態が続いていたように思います。

稀に試合の日は1試合目6年生チームで試合 2試合目会場が1試合目と同じだからと一人残り5年生チームと合流して試合、その後6年生チームに合流して3試合目なんて時もありました。

5年生チームは本来自分のいるべき場所なはずなのに、練習は別で試合だけたまに合流する人。所謂助っ人みたいな感じがして嫌でした。

そんなこんなで1年が過ぎ6年生に。

学校生活ではすっかり大阪に馴染み、親友と言える人間も出来楽しい学校生活を送る一方、野球では右肘を剥離骨折。
病院で診断された時医者からは「もう野球を辞めた方がいい」と言う言葉が。
この時は頭が真っ白になったことを覚えています。

所属していた野球チームは伝統的にその学年で一番早く加入した選手がキャプテンを務めると言う決まりがあります。
僕の学年では僕が後ろから2番目。

しかし、監督から「キャプテンは小西がやれ」と言う一言。
今振り返ると剥離骨折で野球が出来ない僕に少しでもやりがいを与えようと配慮して下さったんだと思いますが、思春期&怪我で荒れていた僕は「いらんことをしてくれるなよ。そんな特別扱いはいらないよ」と言う気持ちでいっぱいでした。

キャプテンに就任してからも自分が野球出来ない辛さに支配されチームをがどんな状況なのかに一切関心はなく。
そんなキャプテンがいるチームなんて勝てるはずもなく、5年生まで強かったチームは1回戦、2回戦負けを繰り返し、結果5月には監督が「こんなチームはチームじゃない。もう見ない」と言って練習に来なくなると言う事件が。。。(監督のチームなんですけどね。。。)

剥離骨折後手術はしないで周りの筋肉を鍛えることで保護しようとスポーツ専門の病院で診断とトレーニングをしていた為6月くらいには試合にも出れるようになり、何故かわかりませんがチームにも一体感が戻りつつあって勝てるようになったと記憶しています。

その後監督も復帰し、本格的にチームとなったのが夏。
僕らのチームはずっとエースだったH君が肩を怪我しており、投手不在の為何人も投手の練習をし日替わりのような形で凌いでいましたが、やはり打たれる。
当時乱打戦が多かったように思います。

そのころ僕自身もショートからピッチャーやキャッチャーも経験しました。
そして秋ぐらいにエースが帰ってきて、そこから覚えている限り卒業までの5大会で4回優勝したはず。
試合に挑むにあたってあれほど負ける気がしなかったのはあの時くらいでしょうか。
小学生最後の大会でも優勝できた時は泣けるほどうれしかったことを覚えています。

中学生時代

地元の公立中学に進み、野球は学校のクラブではなく、地域のシニアリーグのチームに加入します。

シニアでは幼少期と違い野球に主体的に取り組むことがなくなっていっていました。
とにかく練習が嫌いで、どうサボろうかしか考えていませんでした。

今シニアの時のチームメイトに聞いても「小西は要領よくサボってた」と言われるほど。(自慢にはなりません。)

一方学校では殆どの友達は学校のクラブに入っており、共有する時間が長く、共通の話題も多い為積極的に輪の中心にいると言うよりは、傍から眺めていることが多かったように思います。

思春期や反抗期もあり、この頃は何かを主体的にやるといったことは無く受動的に生きていたように思います。

あまり楽しかった記憶もなく、唯一あるのは野球で悔し経験をしたことぐらい。
中学2年生くらいではもう勉強が嫌いすぎて、高校は野球で行くと言う言い訳を盾にまともに勉強もしない日々。

中学3年になり夏頃には野球推薦で高校も決まり、周りの友達が受験勉強に本腰を入れ始める中、遊んで過ごす毎日。
今思うと目的が何もなかった為何かに熱中することもなくなんとなく過ごしていたなと思います。

まとめると中学生の時の記憶が薄い!笑

その後

その後高校では今は全国屈指の強豪校と言われる高校に進学します。
野球が好きだから。甲子園に行きたいから。プロ野球選手になりたいから。そんな想いは一切なく、入学したのですが、周りは自分と真逆。

甲子園を本気で目指す者、プロを視野に入れる者が大半。
先輩の試合を見るとエースが150キロ超を投げる。。。

入学早々思ったのは「来る高校間違えたな。」でした。

寮に入っており、ご飯はどんぶり2杯がマスト。これが一番きつかったな。

元々入学時に右肘を骨折しており、それが悪化しまたもやプレイヤーとして続けることが難しくなり、もうその頃には普通の高校生活がしたい。と言う想いが強く、野球部の退部を決意。

スポーツクラス(名称は違うが)だったのでマネージャーとして残るか辞めるかの二択を迫られた中で退学を決意、その後別の高校に編入します。

その後大学も早々に中退し、就職。

目的も夢も無い状態が続いていました。

今振り返ると「他者から優秀と思われたい」「なんでもできる自分じゃなければ価値がない」「自分はなんでも出来て当たり前」と言う部分にとても囚われていますね。

この原体験があるからこそ、今の価値観が形成されているのですが、基本的には挫折が多い人生です。※若い頃はそれすらも認められなかった。

20歳前後まではこういった人生を歩んできました。

良くも悪くも野球中心の人生でしたね。

最後までお読みいただいた皆様ありがとうございます。

少し長くなってしまったので今回はこの辺で終わって、次はキャリア中心の経歴を書きたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

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