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『神様になった日』感想。「1クールアニメとKeyが生み出した“泣きゲーの方程式”の相性の悪さ」について

“泣きの原点”と”ボーイ・ミーツ・ガールの到達点”と銘打たれたKeyのシナリオライターである麻枝准が脚本を務めたアニメ『神様になった日』。

アニメ・ゲームファンなら誰もが知っている名作「CLANNAD」の原作者による新作アニメであること、さらには麻枝准の「原点回帰」を掲げた本作は、放送前から多くのファンが期待していた作品だった。

しかし序盤から最終話に至るまで、多くの批判が寄せられることとなった。(因果関係はわからないが、最終回直後に麻枝准が自身のTwitterのアカウントを削除し、放送後にも物議をかもしている)

「世界の終焉」という壮大なテーマを掲げたにも関わらず、強引かつご都合主義的なストーリー展開、過剰にも取れるギャグ要素に反して、あまりにも希薄すぎる登場人物の描写(ヒロインの伊座並はメイン回以外はほぼ空気・全然バディ感のない親友の阿修羅・天願賀子に至ってはただのブラックカード引換券)など、麻枝准ファン・アニメファンからは否定的な意見が続出した。

しかし冷静に考えれば本作は数多ある1クールアニメの中では非常にクオリティの高い作品だったのは間違いない。P.A.WORKSによる作画は初回から最後まで息切れすることはなかったし、OP/EDはもちろん、劇中歌・BGMのどれもが一級品で、麻枝准の楽曲が聴けるだけで本作にも意味があったとさえ思えるほど素晴らしいものだった。

実際「泣いた」という視聴者も多かっただろうし、事実僕の涙腺も緩んだし、涙の一つもこぼれた。

そう。僕は確かに泣いた。でもはっきりと言えるのは、

僕の涙に感情はほとんどこもっていなかった。

「人ってこうやれば泣くよね」と仕組まれた構造に機械的に泣かされたようだった。このどこか「無理やり泣かされた感」こそが「神様になった日」の問題点であり、その原因の根底にあるのは、

1クールアニメとkeyが生み出した“泣きゲーの方程式”の圧倒的相性の悪さ」だったのではないだろうか。

泣きゲーの方程式とは

麻枝准が所属するノベルゲームブランドのKeyは「Kanon」・「AIR」・「CLANNAD」など名作ノベルゲームを次々に生み出し、プレイヤーを感動させ涙を誘う、いわゆる「泣きゲー」のパイオニア的ゲームメーカーだ。

「泣きゲー」は今ではノベルゲームの一大ジャンルであり、Keyだけの専売特許ではなくなったが、この泣きゲーは基本的に一つの方程式が存在しており、その方程式に則ってプレイヤーの涙腺を揺さぶっている。

その方程式とは、

①穏やかな日常シーンでヒロインとの関係性を深め、プレイヤーを感情移入させる(萌えさせる)

②深刻な事件が起こり、ヒロインが不幸な状況に追い込まれる

③不幸から脱するために主人公が努力するが、やっぱりダメ…と見せかけてうまくいって大団円のハッピーエンド

この方程式通りに物語を進行し、泣かせたいシーンで「切ない旋律の曲を流す」ことでKeyのノベルゲームはプレイヤーを涙へと誘っている。

「神様になった日」にこの方程式を照らし合わせれば、大体以下の形だろう。

1話〜7話 ①日常回
8話〜9話 ②深刻な事件の発生
10話〜12話 ③やっぱりダメ…と思わせておいてハッピーエンド

本作は麻枝准の原点回帰とされた作品だけあって、方程式通りに脚本が組まれている。「神様になった日」はいわば麻枝准の十八番といってもいい脚本構成で挑んだにも関わらず、期待されていた結果にはならなかった。

一体なぜか、それは「泣きゲーの方程式」はそもそも1クールアニメでやるにはあまりにも尺が短すぎた。これが一番わかりやすいのは、ヒロインの一人である伊座並の主役回である5話「大魔法の日」だ。

5話の核となるストーリー・劇中歌の「宝物になった日」はとても素晴らしく、視聴者を泣きへと導くには十分なものだった。(方程式③の部分)

しかし1話〜4話までの伊座並は視聴者にとって「ちょっと不思議な可愛くて寡黙な女の子」程度のキャラでしかなく、感情移入できるほど十分な萌え要素を提供できていなかった。(方程式①の不足)

キャラへの愛着が不十分な状態で、父との軋轢を5話の前半Aパートで軽く紹介され(方程式②の不足)、Bパートのわずか10分程度で問題を解決させてハッピーエンド!さぁ泣け!と促されても視聴者の感情はとても追いつかない。でもシーン自体は切ないから泣ける。これが乾いた涙を生み出してしまった原因だろう。

もっと言えば、主人公である陽太がこの問題に対して何の役に立ってないことも感情が乗らない原因でもある。(これは神様になった日における弱点の一つ)

この5話で「泣きゲーの方程式」を利用するためには、もっと伊座並と陽太の関係性を深めるシーンを事前に用意しなければいけなかった。少なくとも前の4話で伊座並に麻雀の解説をさせている場合ではない。

もちろん本作のメインヒロインはひななので、5話の伊座並回はある意味ギャグ回からのシフトチェンジ・作品の起爆剤的に使ったのであれば、それはそれでいい。でも本作は肝心のひなのストーリーにおいても同じような問題を解決できずにいる。

わちゃわちゃと騒がしい夏休みを過ごしてく陽太とひなの日常は面白くて愉快ではあるのだが、視聴者がひなに感情移入するための導線としては物足りなかった。さらにひなが陽太にとって特別な存在になっていく描写が一切ないせいで、9話の陽太とひなの告白と別離のシーンはどこか上滑りしてしまっていた。

この「泣かせポイント」の上滑り感は本作最大の見せ場だった最終話の抱擁シーンまで修正されることはなく、視聴者の感情を置いてきぼりにしながらただただ泣かせようとする演出の連続となってしまった。

「泣きゲーの方程式」の効果を最大限にするためには、プレイヤーのヒロインへの感情移入(萌え)は絶対的に不可欠な要素で、「神様になった日」はこの点があまりにも欠落しており、Key・麻枝准の得意の「泣きゲーの方程式」が完全に裏目になってしまった。

ノベルゲームの「プレイヤー」とアニメの「視聴者」の違いについて

そもそもノベルゲームの「プレイヤー」とアニメの「視聴者」は似て非なる存在であることも本作の「泣きゲーの方程式」が通用しなかった原因の一つだと思われる。

ノベルゲームの主人公は作品の主役であるとともに、「プレイヤーの分身」でもある。人によって差はあれど、多くのプレイヤーは主人公に自分を投影させながら物語をプレイし、ゲーム上の出来事を主人公を通して追体験することでヒロインや周囲のキャラクターへの愛着をより深めていく。

もちろんアニメの「視聴者」も似たような感情を得ることはできるが、ノベルゲームほど主人公に感情移入しながら作品を観ることは難しい。ノベルゲームは「主人公の視点で物語を眺める」のに対し、アニメは「主人公を含めた物語を俯瞰的に眺める」ことになる。

レーシングゲームの視線で考えるとわかりやすいかもしれない。レーシングゲームの多くは「ドライバー視点」と「自分が乗っている車を上から見下ろす視点」のどちらかの視点を選ぶことができるが、どちらがより没入感があるかは明らかで、これはノベルゲームのプレイヤーとアニメの視聴者の差に非常に近い。

さらにノベルゲームは複数のヒロインがいる場合、ヒロインごとのルート分岐が存在し、エンディングが異なる。それぞれのルート・シナリオを独立した世界観として捉えることができるため、全てのキャラに対して「泣きゲーの方程式」を適用できる。

もし「神様になった日」がノベルゲームだとしたら、ひな・伊座並・天願・ひかりのそれぞれと交流を深めることができる。それなら「神様になった日」の最大の問題点・違和感の一つである、

「伊座並が好きだった陽太はどのタイミングでひなのことが好きになったのか?

という問題もルートの分岐によって解決することができる。本作はアニメよりもノベルゲーム的な脚本構成だったことが物語と視聴者の感情にズレが生じてしまった原因の一つではないだろうか。

ではどうすれば良かったのか?

ここまで散々「神様になった日」の悪い点を書き連ねてしまったわけだけど、僕はこの作品は『CLANNAD」のような素晴らしいアニメ作品になり得る可能性があったアニメだったと感じている。ポテンシャル自体はとんでもないものを秘めていたのに、不完全燃焼のまま終わってしまった。本当に残念でならない。

ではどうすれば名作になり得たのか。一番簡単なのは2クールアニメにすることだろう。それだけで本作の問題点のほとんどは解決されるはずだ。

伊座並の描写を「大魔法の日」よりも前にもっと深く描けていれば、絶対にあの回は神回と呼ばれる話になっていたに違いない。それに内向的な性格が解消されたその後の伊座並の姿は想像するだけでワクワクする。だってめちゃくちゃ可愛いに決まってるじゃないか。

阿修羅だって「CLANNAD」の春原のような相棒になってくれたかもしれないし、天願賀子もただのブラックカード引換券ではなく、いいサブヒロインになってくれただろう。そして肝心の陽太とひなの物語もしっかりと描写することで、あの最終回はより切なく、視聴者にとって愛しく大切な宝物になったに違いない。

そう考えると本作の問題はシナリオだけでなく、昨今の1クールが一般的になってしまっているアニメ業界の問題でもある。内容があり、厚みのあるアニメ作品を作ることが困難な時代になってしまっているのかもしれない。

それでもどうしても1クールで収めるとしたら、多くの人が批判しているように「ギャグと日常回を削れ」ということになるが、本作においてはこの手法は困難だった。

本作のストーリーの根幹にあるのは「一夏のかけがいのない日々」であり、あの日々の全てが「ひなにとっての宝物」だった。あの穏やかで美しい日々こそが本作の一番重要な描写であり、その日常を削ることはラストの結末の余韻だけでなく、作品の根底を揺るがしてしまいかねなかった。

「神様になった日」の日常回は「泣きゲーの方程式」だけでなく、「本作のテーマ」としても削ることができないものだった。

とは言え、もう少しうまくやれたのでは?と感じる部分も拭えなくはないが。


総評「神様になった日」は失敗作だったのか?

「神様になった日」のシナリオ・シリーズ構成は1クールアニメの型を大きくはみ出してしまっていた。

麻枝はアニメダ・ヴィンチの本作へのインタビューの中で、「尺足らずと言われた過去作(Angel Beats!・Charlotte)の反省を活かし、シリーズ構成・シナリオは監督と協議しながら作り上げていった」という趣旨の回答をしているが、残念ながら本作でもそれを修正することは叶わず、この点において、麻枝准・監督の浅井義之の試みは失敗だったといえる。

しかし繰り返しになるが、「神様になった日」は1年に数百本も生まれてはひっそりと消えていく1クールアニメの中では非常にハイクオリティな作品だった。どれだけ評価を低く見積もっても平均以下になることは絶対にないはずだ。

P.A.WORKSの作画・天才麻枝准の生み出す音楽・強いメッセージ性のあるテーマは他のアニメでは決して見ることはできない唯一無二の作品だった。

数多の作品が生まれては消費されていくアニメ業界で、麻枝准の独創的かつ美しい音楽、「喪失と再起」という人間の存在そのものをテーマにした純然な人間ドラマを提供することができるクリエイターが他にいるだろうか。仮に存在したとしても、それを表現することを現実的に許される作家が他にいるかと問われれば、限りなくゼロに近い。

本作は麻枝准にしか作れないアニメだったことは間違いなく、その点において「神様になった日」は必ずしも失敗とは言えないアニメだといえる。

前述のインタビューの中で麻枝は「原作だけを担当し、脚本はアニメのプロに任せた方がいいという意見があり、自分でもその自覚がある」ことを吐露している。それでも自身の脚本にこだわり、批判を恐れずに本作を仕上げた挑戦的な姿勢は麻枝准のクリエイターとしての気概を感じさせた。

確かに「神様になった日」はある意味期待はずれで、名作になり損ねてしまった非常に残念なアニメだろう。しかし同時に、麻枝准のクリエイターとしての才能は未だ衰えておらず、近い将来まだ見ぬ大作を生み出してくれる期待感を与えてくれた作品だった。

だからこそ麻枝准には本作の批判に屈することなく、是非とも今後ともアニメ作品の脚本を書き続けてほしい。

僕は必ず見る。時々は寒いギャグにしらけたり、また野球回かよ、なんて毒付きはするだろうが絶対に見る。麻枝准の描く深遠なテーマと類稀な音楽性はまさに芸術であり、他の作品で決して味わえない感動を与えてくれる。

僕は心底彼の才能に惚れ込んでしまっているし、最も尊敬し、愛してやまないクリエイターの一人だ。

麻枝准という素晴らしい才能を全力で映像化してくれたP.A.WORKS、並びに実現してくれたアニプレックスには感謝しかない。

そして麻枝准さん、本当にお疲れ様でした。ゆっくりと疲れを癒してください。そしてまた素晴らしい作品を生み出してくれることを心より期待しています。

ブログもやっています。漫画関連のネタはこちらで更新中。
こにわっか。






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