この数ヶ月に父さんに起きたこと。



去年末に父さんは転んでしまいそれをきっかけに体調がかなり悪くなってしまった。

よく聞いていたけれど歩けなくなると一気に体力が落ちる。それは本当だった。そして食も極端に減ってしまった。

父さんはできることがどんどん減っていってしまった。二階に上がれなくなり一階に寝場所を移し、コーヒーを淹れるのが難しくなり、大好きな相撲などテレビ観戦する体力も気力も落ちていった、、というような具合に。そんな様子を僕はなるべくサポートしながら見守ることしかできなかった。徐々に衰える父を見ているのは悲しかった。

そして一ヶ月ぐらい前には父は極端に食欲が減ってしまった。僕は(これはまずいな、、、)と思い父さんに「病院に行こうよ」と言うものの、極端な病院苦手な父は「もうちょっと様子を見てみる」と答えるのだった。

そんな父さんがある日の朝、僕を呼んだ。「ちょっと具合がかなり悪いみたいなんだ」と。脈が極端に速くなっていた。顔色も白かった。僕はもうこれはまずいと思い「救急車を呼ぶね」と言った。父さんは頷いた。

それで病院に入院することなった。先生はすぐに手当てをしてくれた。しかし父さんは病院に入院をしたもののそこまで状態は悪くなく数日後にはお家に帰れると主治医の先生は言ってくれた。

しかしその2日後の早朝。退院する予定の前日。病院から電話がかかってきた。父が急変したので来てくれと。

僕は慌てて病院に行った。しばらくすると当直の先生が説明をしてくれた。
父さんはかなり危ない状況になったと言う。心臓の発作を起こしそれがかなり悪く電気ショックをしたとのことだった。今は安定しているけれど、この後のことは主治医と相談してくれとのことだった。

その後しばらく待ち主治医の先生が来るのを待った。そして話を聞いた。
主治医の先生は心臓の専門医で20数年まえに父が心筋梗塞で倒れた時に助けれてくれた先生でいかにも茨城のおじさんと言う感じで優しい訛りのある話し方で僕はそれが好きだった。

「私も最初は数日間で帰ってもらえると思ったんだけど、近藤さん急変しちゃったんだよ。このまま病院で設備のあるところで看取った方がお父さんにとって楽だと思う」と言う話だった。その看取るタイミングは数日後になるか数ヶ月もつかわからないと言うことだった。持病の肺がんと狭心症が絡み合っての病変ということだった。

そして基本的にコロナで面会は禁止の中で父さんに会わせてくれた。
父さんは意識はあった。父さんは僕の顔を見て頷いた。そして「なんか看護婦さんとかたくさん来て随分と悪くなっちゃったみたい」と僕に言った。僕はなんか人ごとっぽい父さんの言い方に少し笑ってしまった。そして僕は「父さん、かなり危なかったらしいよ。でももう大丈夫だから頑張って良くなってね」と言った。先生から聞いていることは厳しい状況だったけれど、それでも僕は笑顔を見せることしかできなった。父さんはもう一度頷いた。そして「20年前と同じでまた先生に助けてもらったよ」とちょっと笑って言った。僕は「本当に先生には感謝だね」と言ってお互いに少し笑った。

部屋を出るときはこれが父さんの最後の会話になるのかもしれないなと思うと涙が出た。

家に帰ってからこのコロナの状態を憎んだ。面会できないまま父さんの様子がわからないままただお別れの時が来るのは待つのは本当に辛かった。

それから数日が過ぎた。病院からいつ電話がかかってくるのか恐れながら過ごしていた。
でもどこか父さんは回復するような気もしていた。

そして僕は病院に電話をかけた。父の様子を聞いたのだ。

すると父さんは思ったより病状が回復していた。不整脈も落ち着き血中の酸素濃度も安定しているとのことだった。一時期は毎時5リットルの酸素が必要だったけれど今は2リットルでも大丈夫とのことだった。

僕は看護婦さんに「もし先生が大丈夫だと判断するなら父を家で世話をしたい。多少のリスクがあってもそっちがいい」と伝えた。看護婦さんは主治医に相談してみると言った。

そして主治医の先生と相談することになった。先生はやはり父の容態はかなり安定してきていると言った。当初思ったよりずっと父さんは回復した。この状態なら家に帰すことできると言った。でもそれには条件があると言った。24時間酸素吸入が必要なこと、あるいは限りなく寝たきりの状態が続くことなども考えて基本的に誰かのずっと介護が必要だということだった。僕はそれは自分たちがやろうと思った。父のことが大好きな妹にもう一度父さんに会わせないと強く思った。

それから父を家に迎える準備が始まった。全部知らないことだらけで毎日新しく学ぶことだった。いつかこうなることはうっすらとわかっていたけれどやはりその事態にならないとやらないもんなんだなぁ。。。

介護認定の取り方、ケアマネージャーさんのこと、訪問診療のこと、訪問看護のこと、ヘルパーさんのこと、介護器具のこと、酸素吸入のこと、オムツのこと。みんなに助けてもらった。

一番ありがたかったのは病院に相談員がいてその方が各方面に連絡を取って調整してくれたことだった。そしてその後を引き継いでケアマネージャーさんが全てを調整してくれることだった。市の介護関係との連絡、介護ベッドやその他の必要品の手配、ヘルパーさんの会社や訪問介護の会社の手配。慣れない僕たちに代わり全部やってくるのだ。本当に本当に心からありがたいと思った。またこういうシステムがある日本はありがたいと思った。

こうして父さんは家に帰ってきた。

実は退院が決まり直前僕は父さんに会うことができた。それはオムツの交換の練習のために病院に行ったときだ。その時に父さんは「よく考えたのだけど父さんは家に帰らないといいと思う。体調も心配だしここだと介護もよくしてくれるし。こんなことを康平がやるのは大変だよ」と言った。僕は父さんの気持ちが痛いほどわかった。父さんは僕に迷惑をかけられないと思っているのだ。自分の気持ちよりそういうことを優先する人なのだ。

僕はそんな父さんをよくわかっていた。「父さんそうなんだね。でもこのままだと妹も父さんに会えないままだし、僕も父さんに会えないのは本当に辛いから一回家に帰ってきてね。その後のことはそれから考えようね」と言った。すると父さんは「わかった」と言った。

そして家に帰ってきた日、ベットを囲んで父さんと僕たちは話した。僕たちは心から嬉しかった。父さんが家にいることが本当に嬉しかった。僕は父さんに「これから僕たちが父さんの身の回りをするからね。僕は父さんが家にいてくれることが本当に嬉しいから申し訳ないとか思わないでね。なんでも遠慮なく言ってね」と伝えた。

父さんは少し涙を目に浮かべて頷いた。そして「家に帰れてよかった。やっぱり家に帰りたかったんだ。このままずっと病院んで過ごして二度と家を見れないかと思うと、、、、」と言った。僕も泣きそうになった。。その後、父さんは時々見せる茶目っ気のある表情で「ビールコップに一杯だけ持ってきてくれなか?」と言った。「病院でずっと夢見ていたんだ」と。僕たちはみんなそれを聞いて笑った。それを聞いて僕は父さんは当分大丈夫だと思った。

それから退院から数日たって。父さんは入院前よりずっと顔色をよくて数値的にも安定している。寝たきりだけど頭もはっきりとしている。

僕も不慣れながらオムツを替えたり食事の世話をしている。
訪問医療、訪問看護、ヘルパーさんたちの助けが本当に心強い。

父さんのオムツを替えていると不思議な気持ちになる。46年前、僕が生まれた時にこうして僕は母さんや父さんにオムツを替えてもらっていたんだなぁと。何にもできない僕を二人はせっせと世話をしてくれたんだなぁと。それが逆転んしたなぁと。そしてあと父さんがどれだけ生きてくれるかわからないけれど、これは僕が与えてもらった最後の親孝行のチャンスなんだなと思う。

母さんが10年前に突然亡くなって以来、僕は基本的に父さんのそばにいて父さんの世話をすることが母さんにできなかった親孝行だと思っていた。

そして父さんが自分のことを自分でできなくなった今それが最終段階に入ったんだとしみじみとわかる。心からこんな時間をもらえたことを感謝しながら父と過ごそうと思う。父と過ごす最後の全時間を全部の会話を覚えていけたらいいなと思う。

父さん、本当にいままでありがとうね。

もちろん父は僕の活動を心から応援してくれているし、僕が仕事ができないことは望まないことなのでヘルパーさんや訪問介護や周りの力を借りながらもできるでけ仕事もこなして行こうと思う。少しでもいい仕事をしてそれを父に報告できたらと思う。

それにしても何度も思うよ。父さん、本当にいままでありがとうね。できる限り父さんが快適に過ごせるように頑張るからもう少し僕たちと一緒にいてね。

、、、本当に長くなってしまった。僕のSNSを通じて父のことを気にしてくれている方もいらっしゃるので長くなってしまったけれど報告でした。

写真は3年くらい前かな。

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