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硬派物語③

キャンペーンも終わりオーダーも落ち着き、ご入金の確認も終わり、在庫の確認も終わり、工場との確認も大詰め。。。本当に感謝です。
後は冬に向かって気分上げて行くだけですね。

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がっ、北海道マークの硬派が欲しいというお問い合わせがたくさん来ていますが・・・(笑)
製品は日本です(爆笑)
お待たせしました、硬派物語の続きです。

Episode⑤ 雪国北海道。
そこには信じられないくらいゴージャスな雪が降り積もる。
子供のころから雪と遊び、また冬の辛さを知る生活の中に、子供たちは自然の与えてくれる楽しみと厳しさを遊びの中に身につけていく。

1982年だったと思う。
行き付けのサーフショップにそれは5本並べられていたことは前にも話したが、ここからはじまる。

サーフボードを小さくした形に船底。

北の海で波を越えてきた波乗りの感覚で、雪の上を横乗りで滑るものだとはわかったけれど、雪の上で横に乗る初めての経験。
先生なんて誰もいないし、ガキの頃から親しんだSKIと同じ感覚で状況なんてお構い無しでカチカチのゲレンデに出かけた青年「菊地司」。
おまけに「フレックスの無い板に乗るので、あの頃はかなり後頭部はきたえられたな。」
と笑いながら昔を話してくれた。

いやいや、俺が始めたのは少し後だったけれど俺のころだって合板を体よくカットしてあったけれど、全然曲がらないし引っかかるし、俺にボードを教えてくれたスイスイ滑る相澤盛夫氏と女子高生だった牛山奈穂美が神様や天使に見えたもんだった。
信州に限らず先ずは偏見なく滑らせてくれる場所探しから始まったあの頃・・・
菊地司の暮らす北海道 岩見沢でも近間のスキー場は何だかんだ滑らせてくれたが、次のシーズンには早々と禁止になり、彼ら生粋の道産子サーファーの冬の横乗り人生は採石場や閉山した炭鉱のずり山が遊び場となった。
人並みに滑れるようになると滑らせてくれるスキー場や大きな山に旅をする様になる。

人口が少なかった分、旅で出会う同じスポーツしている人とはすぐに距離は近くなり、情報交換できた事は幸いだった。
その頃出会った多くは海を愛すサーファーやウインドサーファーたちで、冬には北海道のスノーサーフィンを牽引していく。
まだ本州から移住する連中もいない時代。
本州から北海道に来るのは大会が目当て、大会が終わればみんな本州のホームへと足早に帰る時代。
もちろん外国人の姿はない。

北海道で滑る彼らの興味は菊地司のように自然の山に向かう者と、競技会に向かう者へとおのずと別れていく。それは仕方ないことで評価の対象が大会の成績しかない時代。
ただ純粋に自分が生まれ育った北海道の1000mを超える山々を目指し、非力な装備を携えまだ見ぬ斜面と雪を求めた男たちが静かに山に向かい始める。
撮影のためでもなく、誰かに認めてもらいたいためでもなく、ただ滑ってみたい気持ちのままに。
それはサーファーがまだ見ぬ波にパドルして沖に向かう気持ちと一緒だっただけだ。

北海道の山は今でこそ日本中、いや世界中からバックカントリーの雪を求め、争奪戦のように山にトラックを刻むが、この当時はまだ限られた道産子のスノーサーファーと山スキーのオヤジだけの聖域だった。

それから数年して「北山会」の存在を俺は知る。
それはまさに菊地司の活動のベースだった。

続く・・・🐂

投稿日 : 2017/09/19

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