2021年3月1日

 こなつがお教室に通うようになって三週間が過ぎた。まるっきり人間の子どものようである。週に一回のその日は夕方の散歩を教室への行き帰りに換える。人間の足で二十分、こなつがあれこれにおいをかいだり犬仲間にあいさつしたりすると三十分以上で、往復一時間少々、いつもは朝晩それぞれ一時間ほどだから、ちょうどいい夕方の運動である。

 トレーナーさんの名をNさんという。Nさんは日本語をよくするが、中国系のなまりがあるので、私はてっきり中国から来て日本に帰化した人なのだろうと思っていたのだけれど、三回通って前後の世間話で聞いたらば、外国人ではなく帰国子女で、とても幼いころから中国語圏各地の世界を飛び回り(外交関係あるいは商社社員のお子さんだったのだろうと推測する)、そのために四カ国語ほどを話すがそのすべてにおいて中途半端、ネイティブらしいことばを話す言語がなく、ずいぶん苦労をしたということだった。
 だから少々人間不信です、と彼女は言うのだった。わたしは人間不信で犬が好きです。犬はいつもいました。わたしはコンピュータが嫌いだし組織になじめない。コミュニケーションが苦手です。そんなふうに見えない? 犬がいるからです。犬がいないとだめです。警察犬のトレーニングとセラピー犬のトレーニングを経験して今は地域の家庭犬の相談に乗っています。
 彼女の両親が犬を飛行機に乗せて飛び回っていたのなら、それはそれでものすごくうらやましいことだけれど(こなつの飼い主はものすごい旅行好きなのだ)、なにはともあれ彼女は凄腕のトレーナーである。

 というのも、こなつのトレーニングがそれこそ中途半端だったのをさっさと直してしまったのだ。「おいで」をやって足元まで来ないのはそれでもほめれられていたから。ほめても反応がいまいちなのは飼い主のほめかたがこなつに通じていないことが多いから。
 こなつがあれこれがまんしてくれているのにがまんしたことをほめてもらえないから、こなつががまんする時間が短くなってしまう。人間と暮らすならルールにしたがってがまんさせて、がまんしただけほめてあげないと、ルールを覚えない。

 明確である。こなつはNさんのところに通うようになって二回目でその場所を覚え、ぴこぴことお尻を振ってドアの前に立っていい子で待っていた。そうしてNさんがドアをあけると大歓迎して「きょうはなにをしますか、せんせい」というような顔をしておすわりするのだった。
 犬は明確なルールのもと無理のない範囲でものごとを教え的確にほめてくれる人のことを決して忘れないのだなと思った。

 そんなわけでこなつはすっかりお教室を好きになった。
 お教室ではオイデとか拾い食い防止だとかの基本のしつけのほか、飼い主のリクエストにこたえてくれる。私はこなつがいかにして服嫌いに育ったかについて話した。飼い主が「柴犬に服などいらぬ」と服を着せずに育てて手術後に術後服を着せる段になってたいへんな騒ぎになり、こなつが服という服を嫌いになった、そのために雨の日もかっぱを着せることができない、というストーリーである。
 かっぱを持ってお教室に行くと、Nさんは数粒のフードと的確なリアクションであっというまにかっぱを着せてしまった。のみならずこなつはかっぱを着たまま遊んだ。少々ぎこちなかったが、遊んだことはたしかである。

 家でも復習しつつ、次回も基本のしつけをほったかしにしてでもかっぱの練習をしてもらおうと思った。私はこなつに小学一年生の傘みたいな真っ黄色のかっぱを買って、それを着ているこなつがあんまりかわいいので、雨の日の散歩の利便性以上にそれを見たいのである。
 Nさんにやってもらう前に家で着せたらこなつはこの世の終わりみたいな顔してハウスにひきこもり、翌日から例の下痢をした。それがこなつの生まれてはじめての腹下しであって、夜中じゅうきゅんきゅん鳴くので私の精神はたいそう消耗したものである。
 Nさんにやってもらったあとはまったくもって元気だ。ためしに三日後の雨の朝に着せてみたら平気で散歩に行くことができた。帰り際にぐずったが、たいしたぐずりではなく、体調も問題なかった。
 まったくもって、餅は餅屋である。六回コースで一回あたり四千円だが、十二回は通うことに決めた。

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