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生きる意味、そして私は私に期待しない

本を読まない代わりにYouTubeで本の内容を知る時代になりました。本当は本を読んだ方がいいんでしょうけどね。
「夜と霧」という、ホロコーストを経験した精神科医が、生きる意味について自らの考えを示した本。

私も生きる意味をずっと探していた

私は昔から、小学生くらいから、人生を無駄にしちゃいけない、何かを成し遂げなくてはならないと焦って生きてきました。きっと、アニメや漫画のように、主人公が突然何かに巻き込まれて、立ち上がらねばならないような、そんなイベントがあると信じていたのでしょう。
例えば、空から女の子が降ってきて、救わなくてはならないような立場になるとか、いきなり戦争が起きて、秘密兵器に乗らなくてはならないようになるとか、父親に呼び出されて、秘密兵器に乗れと言われたりとか、契約を結ばされて魔法少女になるとか、何かが私だけに特別な目的を与えてくれると思っていたのです。
しかし、待てども、そんな私だけに特別なことは起こりません。そのかわり、どこに合格するとか、何かの賞を取るとか、内定もらうとか、給料を稼ぐとかそういう周りから与えられるミッションはあるわけで、「私だけ」の特別なイベントは起こらず、みんなと一緒に平凡なミッションをこなしていく毎日でした。
その上、そのミッションクリア以外のことをすると、もっと勉強しろだの、意味のない時間は私にとって悪になりました。趣味や余暇を過ごすことに罪悪感を感じながらも、ミッションもやりたくないわけで、どんどん何もやりたくないという無気力になっていくのがわかりました。好きなことをしても気分が晴れずに罪悪感、望まれているけどやらなくてはならないミッションをやるのもしんどい。やりたいことをやっているように周りからは見えるのがまたつらい。"相手の希望にあった"やりたいことを伝え、喜んでいる相手を見て安心していました。自分は意味のある存在で、好かれているものだと思いたかったのです。
そんなことをしていると、毎日がつまらなくなってきて、私は何をしたいのか、何が楽しいのかがわからなくなってきました。全てを周りの人を基準に考えていることに気がついたのです。

この「夜と霧」で、現代で、私は生き残れるか

「夜と霧」の内容を知ると、私は真っ先に自殺するとは言わなくとも、最後まで生き残れたか不安になりました。周りに期待をしているのはもちろんですが、それよりもショックだったのは、完全に、私は自分に期待をしていなかったのです。
私は、得意不得意はあるけれども、何かしらの才能もあるし、知識も豊富です。いいものを持ってることは知っていますが、だから何?という感じです。
私は周りに期待して、そして、周りが期待することをやってきました。私が私に期待する必要が無かったんです。最終的に、私は私では無い感覚に陥り、自分という存在を見失ってしまいました。あれ?一体私は誰だろう?我思う故に我あり?我とは?

「自分」さえも外部世界に探し出す

自分という存在は、常にここにあるのに、不思議なことに私は、世界中に居るはずのない自分探しを始めたのです。自分が自分であると感じられないんですよね。一人で何ヵ国か行きましたが、当然私は居ません。自分という存在すら、外部に求めていたのです。誰かの期待に応えた人生を辞めたいのに、まだ自分は誰であるかすら、誰かに与えられることを待っているのです。かといって、自分に問いかけても、何も出てこないんです。
私はこの期待というものは、周りから与えられるミッションだと感じていました。正直やりたくない、嫌なことが多かったです。勉強や宿題、受験、就活、仕事とかね。本当にイヤイヤやっていた。全然ワクワクしないことばかりです。
じゃあ、自分が自分にそれを課そうとするかというと、私は絶対したくない。ドMな人ならするかもしれないけど、私はそんな期待は自分にしたくない。どうしたいかという質問には、答えられる。なんにもしたくないのだ!

やりたくないことなら結構あんだけどさ。

週刊少年ジャンプの冨樫義博氏の作品である「HUNTER×HUNTER」に、キルア・ゾルディックという少年が出てくるのですが、彼の言葉にすごく共感しました。ハンター試験を終えて、これからどうするか二人で話をしている時、主人公であるゴン・フリークスに対して、彼はこう言ったんです。

お前えらいなーって話だよ。オレってないんだよなー。お前みたいにやりたいこと。やりたくないことなら結構あんだけどさ。家にずっといることとか、家業継ぐこととか。なんかうらやましいよ、お前が。

キルア・ゾルディックは、ある意味サラブレッドで、英才教育を受けてきました。唯一父親と同じ髪の色を持つ彼への期待は大きかったというのもあるようです。周囲の期待に答え続けていると、他人の意に沿いたくない、やりたくないことが増えていきます。能力があるか、無いか、できるか、できないかは関係ないのです。

愛すること

「夜と霧」では、もう一つ生きる意味を見出すものとして、愛というものが出てくる。生きる希望として、誰かを愛すること。私はこれには共感できた。愛するパートナーや親がいる。私は往々にして、思い浮かべて後ろめたい気分や嫌な気分になる人をよく反芻する。それよりも思い浮かべて幸せな気分になる愛する人を何度も思い浮かべれば良いのだと感じました。今流行りの、「推し」って、そいう存在なのかなとも思います。
前述のキルア・ゾルディックにとっては、友情という友愛だったが、主人公のゴン・フリークスのことは、愛していたと思う。それが死の瀬戸際となっている時に、生きる意味となっているシーンも多いです。私も昔は、キルア押しでしたが、確かに今よりは充実していたと思います。

生に対する執着

私が、人生を無駄にしちゃいけない、何かを成し遂げなくてはいけないと小さい頃から思うのは、死ぬ時に後悔しがちとか、人生は短いとかを何かしらでよく聞いていたからだと思う。もしくは、前世で短命だったとかね。(前世の話は賛否両論ありますがまた別の機会に話したいです)
その裏には、生に対する執着を感じます。私は生きているうちに何かをしなくては!まるで、大好物のハンバーグの最後の一切れになる名残惜しい瞬間を常にイメージしているような。長い人生をハンバーグのように自分が望んでいるのでしょうか。どちらかというと、この人生を持て余しています。
もしかしたら、生きていること自体にも、生まれた時から何か得体の知れない期待を感じているのではないでしょうか。生まれたんだから、何かして当然でしょ、というように。それは親や周りの人間というより、社会全体、人類全体からの期待のように感じます。勝手にそう感じているだけだと思うので、この重苦しい期待からは脱したいわけです。でも、どこかで、ヒーローやヒロイン、私が世界を救うようなシチュエーションを周りに求めていた子供時代の妄想が捨てきれていないのでしょうか。
そういう期待が執着を生み出し、不自由さの原因になっているのかもしれません。

おわりに

私は自由に人生を生きたいと思ってきました。
今は、時間もお金も自由なので、なんでもやろうと思えばできますが、周りの期待が無いことで、何も動けなくなりました。望んで自由を手に入れたつもりが、自由とは何も無い原っぱで、自分で遊びを作っていかなきゃいけないことに気付きました。
それまでは、アトラクションがあって、流されるままに乗っていたので、最初こそ楽しかったものの、何度も同じアトラクションは飽きます。
何もない原っぱで今佇んでいるだけです。
さて、私はこの原っぱで何をしたいのかな。

退職したお父さんたちや、子育てを終えた人たちが得た自由の果てに、虚無を感じる理由がなんとなくわかります。

この、東京ハッピーライフという本は、週休5日で生活している人の本です。早期リタイアみたいなものです。私の生活に非常に似ていますが、余暇の使い方は読書と散歩。そうか、なにかやらなくてはいけないという幻想にまだ私は引っ張られていたんだと感じました。やりたいことをやればいいんだ、読書と散歩でいいんだと私を勇気づけてくれました。私にとっては、なんの価値にもならないかもしれない、創作や研究がその対象になりそうだと感じました。

私は、私に期待しない。私がやりたいように生きる。

わがままや自己中は、周りに迷惑をかけるから、駄目だと教えられてきましたが、そんなこと言ってたら、なにもできない。だから、私は、自分にも期待するのをやめて、私が本当に、素直にやりたいことをやっていく。それをスタートさせてみてはどうかと感じました。その第一歩がこのnoteかも。文章をそんなに書いて公開することも無いので、これだけ自分の中から文字が生まれてくるのはすごく不思議です。

期待に応えない書くという行為は癒やしかも

私は、人と話す時は話を聞くだけで、自分のことをほとんど話しません。でも、これだけ自分は表現したかったんだと驚きを隠せません。私は、他人といる時に、自分の話ばかりしていては、つまらないだろうし、私のために時間を使うのはもったいないと思っています。それは、常に相手の期待に応えなくてはと思うからだと思います。だから、こういう文章なら、嫌な人は見なくてもいいし、時間も気にせず書くことができます。私にとっては、気兼ねなく自己表現できる場なので、とてもリラックスして書くことができます。文章を書くことは、セラピーにもなるかもしれないし、自己理解にも繋がります。

日頃、聞き手になる人は、文章を書いてみると、なにか新しい発見があるかもしれません。

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