短編小説 バスに乗りたい彼女
太陽が白い。
入道雲が目立つ真っ青な空は汗ばむ季節の象徴だ。
大きな荷物を持っていた右手には鞄の跡がくっきりと残っている。
バスはもうとっくに行ってしまったらしい。
「環境を変えれば気分も変わる」
そう進められて、緑が綺麗な田舎に一週間くらいの旅行を計画したのだが、暑苦しいだけだった。
もともと飽きやすい性格だった俺は一週間の宿泊を三日で断念。
帰路につこうとしたものの、なんとバスが一日に二本だけ。
それも午前のバスをたった今乗り過ごした。
自分が哀れすぎて吐く言葉もない。
頬を伝う汗が生温い。
バスの時刻表をみれば次に来る電車は五時。
チェックアウトをすました民泊に帰るわけにはいかない。ここで待つことになりそうだ。
ドカッとベンチに座り込んでこれもまた生温い息をはいた。
「お兄さん、バス、乗り過ごしたの」
後ろから突然声をかけられ、ぎょっと振り向くと、膝上までのズボンに、軽そうな白い服を着た、高校生くらいの少女だった。俺と四つくらい違う。
「君も乗り遅れたんだろう?」
普段なら放っておく俺も話し相手が欲しかった。この暑さを無言で待つなんて考えられない。
「君、って呼ばれるの、好きじゃない」
「なんて呼べば?」
「私の名前を聞いてるの?」
「呼び名を聞いてる」
「じゃぁ、春」
「呼び捨てでも?」
「どっちでも」
蝉時雨が五月蠅く、声が聞きとりにくい。
「春もバスに乗り遅れたんだろう?」
もう一度聞き直す。こんな暑い日にバス停に来る少女。理由はそれしか考えられない。
「違う」
だから、この一言は意外だった。「じゃぁ、なんで」と、聞こうとする俺の声を遮って春は、どうしてここにいるの?と聞いてきた。
「気晴らしに」
短く答えた俺の顔を不思議そうにのぞき込む。
「嘘だぁ、全然気晴らしになった顔してない」
「ならなかった、暑苦しいだけだった」
「でしょうね」
春は小さく笑うと、なんで気晴らし、したかったの?と興味深そうに聞いた。
「仕事もやめて、家族とも連絡を絶ち切ったんだ。そしたら、急にどっと疲れが出て、家から出れなくなってきたから、友人が旅行を進めてきたんだ」
春は少し驚いた顔をして「そっか」と申し訳なさそうに呟いた。どうやら聞いてはいけないことを聞いた、と後悔しているようだ。
「別に聞いてもいいよ。どうせ、気になってるんだろ。なんでそんなことをしたのか」
春は意外そうな顔をして、それからすごくホッとした顔をした。俺が気にしていないことを理解したらしい。
「気になる。教えて」
「大した話じゃないさ。将来ばっかりみてなんでも我慢してここまで来たのに、結局転がっていたのはその場その場の苦しみだった。大人になれば何かから解放されるとか、馬鹿みたいに信じてたのに。そうやって、幸せになれないのだと勝手に絶望して、仕事をやめたら、しきりに理由を聞いてくる家族が煩わしくなったんだ」
酷くつまらない話だな、と我ながら思いながら春の方を見ると、その瞳は意外にも共感に満ち溢れていた。
「君も一緒か?」
自然に出てきた。春は言葉に出さずに、こっくりと頷いた。
それからはくだらない話ばかりした。同じものを感じたせいか心が自然に開いていった。たぶん、春も。
俺は「なぜ、ここにいるんだ」という質問はしなかった。春は知られたくないだろうし、そんなことはどうでもよかった。
暑さはいつの間にかどこかへ飛んで行っていて、後には久方ぶりの自分の笑い声が残った。
ふと気づくと春の綺麗な横顔が夕日に照らされている。もう日暮れだったのだ。急に切なくなって思わず、顔を背けた。
「今日が、終わっちゃうね」
春の声も切なく震えていたが、何かを決心したような強さを帯びていた。
「あのね、今日、久しぶりに笑ったの」
「俺も」
冷たく優しい風が吹き始めた。
「聞いてくれる?どうして、私がここにいたか」
「うん」
「嫌になったの。学校も、家も。理由はあなたと一緒、実らない未来に絶望したから。でもね、全然捨てられないの。あなたみたいになれない。ばかみたいに頑張って、今にしがみついてしまう」
「うん」
「でね、今日も分かってて、バスはこないとわかってて、バスが来たら、抜けだして、家出して、捨てようときめてここに来たの。それで、バスは」
「来なかった」
「ううん、来たよ」
その言葉になんの意図があるのか、分からなかった。確かにバスは既に行ってしまったはずだった。春は目を閉じて呟いた。
「あなたがいた」
「え?」
「バスだよ。私を連れ出す存在。ねぇ、あなたの名前、教えてよ」
「名前を聞いてる?」
「うん、呼び名じゃないよ」
そう言って春は驚くほど綺麗に笑った。
「名前は……」
嘘をつく必要はなかった。
「晶」
「……あきら」
呟いた言葉を彼女は大切そうに繰り返した。
「春は」
本当は何という名なのか、聞こうとして、しかし、その言葉の続きはいきなり飛んできた罵声に遮られた。
「何やってるの!探したのよ!」
驚いて振り向くと、すごい剣幕をした50代くらいの女性がいた。どうやら春の母親らしい。そういえば春の家の門限は4時だと言っていた。早いね、と返したのを覚えている。それで帰ってこない春を連れ戻しに来たのか。
「帰るわよ」
春を見れば震えながら後ずさりしている。
ブロロロ
タイミングが良すぎる、と俺は思った。バスが来たのだ。
「あっ」
春と女性もバスに気づいた。女性は僕の方を見て「バス待ちでしょう。嫌な人ね、見物してないで早く帰って下さいよ」と怒鳴った。
バスの扉が開く。
「ほら早く!」
女性にせかされて俺は慌てて荷物を抱え、バスに乗り込んだ。
車掌がため息をつきながら、扉を閉めた。バスが発進する。
春はおいていくのか、と叫ぶ自分を黙らせて、知らないふりをした。情けないことに春の方を見れない。最低だ。こんなに弱い人間だったのか。自分でも驚くほど、あの女性にあがらうことができない。今にしがみついていたあのころと少しも変わっていない。
バスの車掌は俺の方をちらりと見てアクセルを強めに踏みながら
「あの人達に構うのはやめた方がいいですよ。あの子のお母さん、随分怖いらしいですからねぇ、いいんですよ。あのお母さんは止めようがない。あの子を見捨ててしまったとか、思う必要ありません」
といった。
しかし、車掌の言葉に俺の中の何かの栓が外れた。
「止めて下さい」
「え?」
「止めて下さい、忘れ物しました」
「え、いや…」
車掌は戸惑う。なぜ、この乗客はこんなところで止めろというのか。みるからに忘れ物なんてないのに。
「いいから止めて下さい!」
俺の大声に車掌は驚いてブレーキを踏んだ。
荷物もほったらかしてバスから飛び降りると、バス停に向かって走った。
久しぶりの全力疾走に息が切れるが辛くはない。
思ったよりもずっと速く走れた。
太陽が西の空に沈んでいく。
紅く染まる空の下、もめあう女性と春が見えた。
春と俺の間は約1メートル。
考えるよりも早く春の手首をつかんで女性から引き離していた。
春の驚いた顔が視界の端で見える。
「あの、俺、彼女の何も知らないけど、でも、それぞれの気持ちがあるんだから、自由にしてあげてもいいんじゃないですか」
息が切れてうまく話せない。しかも、頭が回っていないせいでなにもかもごちゃごちゃだ。
「は?」
女性は突然のことに春より驚いている。当然の反応だが。
「俺に言ったんです。彼女。学校にも家にも嫌気がさしたって。自分の意志で嫌気とか、そういうの感じれるってことは、自分で、すでに未来を選べる状態にあるんじゃないですか。完全じゃないかもしれないけど、強制する必要はない」
「誰なんですか、あなた。何聞いたか分からないですけど、この子は私の子です、私の物です」
「違う、彼女は、彼女のものだ」
思ったよりも大きな声に自分でも驚きながら、それでも言葉が止まらなかった。
「彼女の人生を決める権利は彼女にしかない」
女性は顔を真っ赤にして怒鳴り始めた。
「でも、この子は私の子です」
「お母さん」
春の一際大きな、落ち着いた声がその平行線の口論を遮った。
「お母さん、私、自分で決めたいの、これからのこと」
春の目からは恐れが消えていた。代わりに強いまなざしが光る。
「あんたみたいな子どもになにができるの」
「考えること、話すこと。自分の意志を見つけること。」
「そんなの」まだ言いつのろうとする女性の声を春のよくとおる声がもう一度遮る。
「お母さん、私ね、誰かに決められたレールは嫌いなの。その上を歩くくらいなら壊したい。あなたの「子ども」じゃなくて、「私」として話させて。これは私の人生なの」
「でも」
「私の意見もきいて」
春の覇気に女性はぐうの音もでない。
ふう、とため息をついて女性は静かに首を振った。
「わかったわ……。帰るわよ」
その声に怒りはなかった。それだけだが、女性が春を受け入れたことが伝わるには十分だった。
春はこっちをみて、にこやかに笑った。
先に帰る、と女性は立ち去ってしまった。陽はもうとっくに沈んでいる。
「お母さん、私と話してくれるかな」
「大丈夫だろう」
「うん」
その声にすこし緊張がにじむのがほほえましい。
「私も悪かったよ。思ってることがあるのに言えなかった、だからお母さんも私を、私としてみることがいつのまにかできなくなっていたんだと思うの」
「でも、これからだ」
俺の言葉に、彼女は笑って応えた。
「うん、今日の一夜でこれまでの数年分、話すよ」
「そうしな。学校にいくのも、辛いことから逃げるのも、どっちも悪くはないよ。正解はないから、間違いもない。」
だいぶ格好をつけて言ってみた。今日はどんなこともうまくいく気がした。
俺が立ち上がると、春は小さく照れくさそうに言った。
「ありがとう」
車掌は気まずそうにバスを走らせている。
この車掌は本当に優しい。
俺を待ってくれていた。
そして俺の右手には鞄の跡の代わりに一枚の紙が握られている。
彼女が渡してきたものだ。連絡先が書いてあるらしい。また会えるよう、とのこと。一日話しただけの俺に連絡先を渡すとは無防備だ、と思うが、また会えるかもと思うと正直うれしい。
親愛なる晶へ
連絡先 070ー△〇×▢ー〇△△▢
紅葉より
完
はじめまして。こんといいます。この小説は初投稿です。全部空想で、事実には一切基づいていません。何も分かっていないなりに書いてみました。温かく見守っていただければ幸いです。主にnoteでは小説を投稿していこうと思っています。そして、他の方の小説を見ようと思っています。小説でなくともおもしろい記事が見れればいいです。小説、面白い記事、ジャンジャンあげていただければ個人的にめちゃくちゃうれしいです。
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