ある専門家の一日 case1 公認会計士
渋谷区初台に住む一色拓海は、毎朝5時30分に目を覚ます。
起床するとエヴィアンをグラスに満たし、一気に飲み干す。
スポーツブランドのジャージに着替えると、解くストレッチを済ませ、隣駅にあるフィットネスジムへとランニング。
6時に開館したジムのプールヘ飛び込んだ。
50Mを10往復。
仕事前に1キロを泳ぐことが日課だ。
公認会計士として登録して10年。
資格取得後の5年は監査法人に勤務。
激務の中、我武者羅に働いた。
健康に気遣う余裕なんてなく、仕事、飲み会、接待ゴルフ、何でもござれ。
その働きぶりが周囲に認められ始めたのが数年程前からか。
この数年は、安定よりも何歩か先の贅沢を享受できていると思う。
健康診断に引っかかったことを機に、朝のスイミングを5年続けて、日課になった。
今、一番脂ののった48歳を迎えた。
引き締まったウエスト、盛り上がった肩幅は30代前半の若さを保ち、体力は20代のときを思い出させる。
毎日に充実感を感じている。
プールを上がると、事務に併設されたカフェで朝食をとるのも毎日のことだ。
果汁100%のオレンジジュース、ベーコンサンド、サラダ。
日経新聞を熟読し、何紙かの新聞を斜め読み。
スマホを取り出し、昨日のNYダウ終値もチェック。
今日も株価が変動しそうだ。
金融株と建設株にそれぞれ買いと売りの注文を出す。
自宅へウォーキングで帰るとじわりと汗が流れる。
朝の運動を終え、シャワーを浴びて、残ったエヴィアンを空にする。
ブルックスブラザースのオーダースーツに着替え、レジメンタルタイを絞めると気持ちが騰がる。
戦闘態勢へ移行。
今日は大手商社の関連子会社を設立する打合せだ。
駅徒歩5分のマンションから、新宿で乗り継ぎ、丸の内のクライアント先へ直行。
10時ジャスト。
受付嬢に名乗ると、「一色先生、お待ちしておりました。まもなく部長の杉田が見えます。」
「先生、おはようございます。どうぞこちらへ。」
地上50階の応接室へ通される。
窓からは通勤ラッシュが過ぎたあとの東京駅が見えている。
ふっ、と窓際を見ると長身の男性が立っている。
部長が告げる「社長の石塚でございます。」
(ほぅ、社長直々とは恐れ入った。)
新会社設立への期待が高いのだろう。
社長と名刺交換を交わし、しばし雑談。
ゴルフの話で盛り上がる。
こういうときのこともあり、ゴルフはやっておいてよかったな、と実感している。
ようやくコツをつかみ最近では85を切ることが常である。
先日は、軽井沢のゴルフ場に同世代のバンカーとラウンドし、ありがたいことにコンペで準優勝をさせていただいた。
おっと、話がそれた。
社長が退出するようだ。
「先生、楽しい時間をありがとうございました。短い時間で申し訳ありません。新会社の件、よろしくお願いします。あと、規模は小さいのですが、グループ会社数件について、会計基準で困っております。一括して先生にご相談したいと思うのですが、お願いできますでしょうか。」
私は笑顔で応じる。
これは、来年度は大忙しだな。
杉田部長と設立の打合せを終え、商社のビルを出ると昼前になっていた。
行きつけの寿司屋に電話をし、近くにきている旨を伝え、ブッキングする。
タクシーを拾って、銀座まで10分。
昔ながらの伝統を大切にする寿司屋「庄六」に到着。
個室に通され、大将があいさつに現れたところで、せっかくだからと恵比寿ビールで乾杯。
季節の味わいを堪能した。
会計はアメックスのブラックカード。
キャッシュレスで釣銭いらずだ。
「またお待ちしています!」と威勢のいい江戸節に背中をおされ、頭を切り替える。
午後からは、麻布のご婦人の邸宅で相続の相談を受ける。
相続財産からざっと計算しただけでも相続税の対象となりそうだ。
懇意にしている税理士法人の所長を紹介することとした。
専門家同士は喰い合わず、手を取り合うべきというのが信条だ。
私自身はご婦人が代表を務める会社のコンサルタント契約を受任する。
帰り際、「つまらない物ですが…」と千疋屋のマスクメロンを差し出される。
固辞するものの、とてもご婦人一人で召し上がれるものではないので、ありがたく頂戴することに。
電車を乗り継ぐこと10分。
青山の事務所に帰着。
事務所はやや古く使い勝手の悪いビルである。
しかし、レトロ調が何とも言えない味があり、クライアントにも好評を得ており、開業時から入居している。
フロアの3階、私を含めた資格者3名、事務員3名の法人だ。
生憎、資格者の方は出払っているようだ。
確か1人は名古屋に出張、もう1人は地中海でバカンスだったかな。
いただいたメロンは事務員で分けてもらうことにしよう。
パソコンを立ち上げると、今日の依額内容をドキュメントでまとめ、資格者2名とクラウドで共有する。
メールのチェックと返信は移動中にスマホで済ませておいた。
17時、定時の鐘がなる。
事務員に帰宅を促す。
事務員を資格者以上に大切にするのが事務所のポリシーだ。
十分な給与と休暇を与え、それぞれの健康、生活、そして勉強を継続してもらい、いつか当事務所で更なる活躍をしてもらうことを願っている。
18時前に資格者2人とzoomで報告と打合せを済ませる。
大きく伸びをしたところで、本日の業務を終了。
19時からは、お世話になった某地銀の頭取が上京しているということなので、新宿にてイタリアンをご馳走するためリザーブしている。
頭取とは同窓で気の置けない関係だ。
どうやら今日の料理も愉しんでいただいたようだ。
お礼と称され、京王プラザのバーへ移動。
山崎ウイスキィー18年を舐めながら、お互いのブライベートに関することをざっくばらんに喋る。
再会を約して解散。
さて、新宿からは一駅で自宅マンションだ。
タクシーを呼び止めようとしたところで、思い立って手を降ろした。
怪訝な顔で運転手が素通りする。
酔い覚ましに一駅歩こう。
都心の高層ビルを吹き抜ける風はすっかり秋の気配だ。
カツカツと靴音が響く中、 暫し黙考する。
激動する都市部の内に、俺が残せる軌跡とは一体なんなんだろうか。
このちっぽけな俺が何をできるのか・・・
フッ・・・何てな。
マンションのエントランスを抜け、エレベーターで38階の我が家へ。
帰宅中にリモートでセットした風呂が沸いている。
便利な世の中になったものだ。
熱い風呂に入り、バスローブで窓際のソファーへ寝転ぶ。
スマホを見ると、朝、売り買いした株が万単位の儲けとなっている。
無理をしない投資を心掛けながら、このワクワク感がまた明日の活力になるのかも知れない。
ベッドに移り、愛読書「銃・病原菌・鉄」を手に取り、第10章 大地の広がる方向と住民の運命をめくる。
23時消灯。
ジッと暗闇に目を凝らしていると、やがて静かに心と体が闇に溶け込むのを感じてきた。
遠くで微かにサイレンの音が鳴っている…
そのまま意識が途切れる。
こうして、今日の俺が終わり、明日の俺が、再新再生されていく。
※このお話はフィクションです。
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