見出し画像

航空機事故から学ぶ:腹斬りプロップ

1983年6月8日、米国Alaska州Cold Bay空港からWashington州Seattle空港へ向けて、Reeve Aleutian航空8便(Lockeed 188型Electora機)には機長と副操縦士の2名が乗務していた。10名の乗客に2人の客室乗務員がサービスに当たる貨客混合便であった。

巡航中に同機は突然buzzing音がして、操縦桿がブルブル震えだした。すると右端の#4プロペラがエンジンから外れて、弾みで胴体下部を切断し、北太平洋へ落ちて行った。客室内は急減圧で霧がかかったようになり、操縦桿がコンクリートのように重くなった。

客室乗務員らは右端のプロペラが抜け落ちており、それが機体に当たって横に亀裂が入り、通路に直径50cmほどの穴が開いたと分かった。機長らは自動操縦が入らないため、酸素マスクも付けずに必死で機体を10,000ftまで降ろした。そこで機長はまず操縦できることと出来ないことを確認し、自動操縦に人力を加えれば、多少方位は変えられることが分かった。機長は同社のdispatcherであるへ緊急事態を無線連絡した。

dispatcherはKing Salmon空港へのdivertを提案したが、500kmも先にあり、滑走路長も8,900ftしかないため、機長は乗り気でなかった。むしろBristol Bayへditchingすることを考えたが、それにはdispatcherが強く反対した。ならばAnchorage空港まで飛んでいけば?ということになったが、同空港は4時間飛んで、更に山脈の向こうにあり、そこを飛び越えられても山岳波で機体が分解することを機長らは恐れた。

同社の整備士長は無線で機長らに「自動操縦装置を一旦解除してみては?」と提案した。機長は「頭がいかれているのか?」と立腹したが、1回解除してすぐONへ戻すと、嚙み合っていた操縦ケーブルが元へ戻って右席の操縦桿だけは動くようになった。その後左席のも操作が出来るようになった。

Anchorageへ近づいて、機長は#1エンジンが電力供給しているため、#2をOFFにして速度を落とした。Rwy6Rへアプローチしたが、thresholdで160ktも出ていたため、機長はgo aroundを決心した。2回目の着陸では、接地と共に2つのエンジンを停止させ、油圧ブレーキは作動しなくなるので、緊急ブレーキで146ktから機体を停止させた。着陸装置から出火し、機体は滑走路端で側溝へ機首が落ちかけて停止たが、全員負傷せず機体から脱出できた。機長は喜んで、「We're all good!」と管制塔へ通報した。

NTSBの調査官らは実地検分したが、Electoraは1966年からプロペラ脱落事故が6件報告されており、今回はギアボックスも海中へ落したため、詳細は掴めなかった。同機のFDRは金属板をtappingする旧式のもので、こちらも事故原因を解析するほどの情報をもたらさなかった。

AlaskaやCanada北部の交通は小型の貨客便が一般的で、今でもAleutian列島の空港へはDC-3などクラシックな機体が現役で飛んでいます。Electoraの振動は有名でしたが、プロペラが抜け落ちてその刃が機体下面を掻き切ったとあらば、機長も最早これまでとditchingを考えたのでしょう。6月でも身の凍る海に不時着水すれば、救命いかだをうまく展開できても助かる見込みは少ない筈。

緊急事態に陥ると、乗員は目前のことで頭が一杯になりますが、地上スタッフはより冷静に色んな選択肢を熟考することが出来ます。機長は機体がプロペラで斬り付けられて、機首が離断するのを強く恐れていたのでしょう。

divert先やauto-pilotの再設定などで、乗員はdispatcherや整備士のアドバイスを受け入れて、起こりうる危険を想起しながらAnchorageまで飛んだので、最悪の事態を回避出来ました。小さな航空会社だとお互いの素性も知れて、信頼関係があったのが良く作用したのでしょう。

機長夫妻ら乗員一同は同年、Ronald Reagan大統領よりWhitehouseへ招かれ、その武勇伝を称えられました。日本だったら業務上過失で世間から白い目で見られるところ、米国ではヒーロー・ヒロインとして賞賛されます。公共交通機関の従事者が負うリスクに対する考え方が、日米では180度異なることが航空機事故ではままあります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?