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時に共感という暴力

相手の気持ちを自分に置き換えて考える、「もし私だったら」という共感。この共感は時に暴力になるのでは?
端的に言うと、

「自分は別にイヤじゃないからいいでしょ」
がそれに当たる。

人の気持ちになって考えましょう?

「人の気持ちになって考えましょう」
「自分がされてイヤな事をするのはやめましょう」

幼少期に教えられた記憶がある道徳の初手、共感。これをお馬鹿に解釈すると、
「自分は別にイヤじゃないからいいでしょ」

という道徳バブちゃんが爆誕する。

本当ならこの共感の次段階に、
「自分がイヤかどうかは関係なく、その人が嫌がる事はやめましょう」
までがセットだと思うんだけど、それが習得できてないと、
「これくらいで?大袈裟〜」とか、
「自分ならそれくらい我慢できる」とか、
地獄の共感オンパレード開催になる。


それじゃあ仕方ないね、という謎の許可出し

生理痛や頭痛の時の、
「それくらいで休むの?」「私なら薬のんで仕事しちゃう」という『女性の敵は女性』現象をはじめ、
「そんなにしんどいなら仕方ないね」という『謎の許可』の発生。

この謎の許可出し、

「ベビーカーで電車に乗るのも、病院行くなら仕方ないよね」とかの情状酌量論もまさにそれで、自他境界線を土足で踏み越える感じはなかなかに気持ち悪い。
その人が乗る必要があればそれは「その必要がある」のだし、他人になぜ理由を提出しなければならんのか?有給休暇に理由は必要ありません、くらいのシンプルさでよくない?

人の領域に持ち込みを許されたマイ物差し

「もし私だったら」っていうのは優しい気持ちで人を慮る時にだけ許される特例のようなものだと思う。そういう時にだけ人の領域に持ち込みを許されたマイ物差し。
共感はそれを盾に自他境界線を踏み越えた時にあっという間に暴力や同調圧力になる。

「もし私だったら」+否定形はその人生を生きている人への明確な否定だし、「一人っ子可哀想」「母親が働いてて可哀想」もその延長線上にある。

時に共感は必要なくて分からないなら分からないままでいい、その人が大切なこと、嫌なことをそのまま受け取れるようになりたいなと思う。

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