コンセプト(仮)に至るまでのぐるぐる思考。
コンセプトが決まらない。
という最近の悩み。
ちなみに制服案は2つできたし、一応その制服案ごとのコンセプトみたいなものもある。
制服案①は「温室植物園のドームの中で自己の心身を回復させる」。
制服案②は「夜間飛行をしながら静かに自分と対話し、ボディイメージを取り戻す」というイメージ(コンセプトとは言えないか…)で作った。
でも、おおもとの私自身のコンセプトが何かというと、それはずっと白紙のままだった。
たぶん、私は他人や世界に対して強く主張していきたい気持ちみたいなものがあんまりないからだと思う。
私のいままでの基本的な人生モットーは「自我を手放す」ことで、人から褒められた言葉には「どんな状況にいても前向きに物事を捉えていくことができる」というのがある。自分でも自分はそういう性格だなって思う。
つまり、何を着るのかとか、自分の心身の状況がどうであるとか、そういうのがわりと劣悪な感じであっても「ふふ~ん♪」としてられるところがある。
脳みその半分が絶望してても、あとの半分ではわりと平然としてられる。
話が逸れました。
これまでに作ってきた制服案2つのどちらかをメインに据えて、そこに良い感じのコンセプトをつければいいんじゃないか?とも思った。
それは難しいことじゃないし、すんなり収まる感じもある。
でもそうしたくなかったのは、日々Twitterやnoteであきやさんの発信を拝読していたり、自問自答ガールズさんたちの試行錯誤やチャレンジを拝見していて、「自分ももっと自問自答できるんじゃないかな」「手頃なところで片をつけようとしてるんじゃないか」と思ったからだった。
確かにすんなり収まる制服案たち。
でも、この私にかぎって「すんなり収まる」ことがあるだろうか?それは本当に私だろうか?
という思いが出てきた。
【スキ考】で述べたように、私は屈折していて一筋縄じゃいかない、そういうものが好きなのだ。
すでに作った制服案のことたちはとても好きだし、これからも(多少形は変わっても)生かしていきたいなあと思う。
でも、これらの制服案の画像を見ていると「素敵~!」と思うのと同時に、誰か自分ではない他の人の制服を眺めているような心地になるのも事実だった。
さりとて自分の中にほかの制服案もコンセプトの種も見当たらず、自分の心の中を総ざらいしてみても特にヒットする“何か”の存在もないし…。という感じで、いったん自問自答は思考停止した日々を漫然と過ごしていました。
そんな折に、制服案②の記事内で「追想」「ノスタルジア」というものが大好きだという話をし、その際引き合いに出した、大分むぎ焼酎二階堂のCMの存在がその後も数日間頭の中を巡っていました。
このCMシリーズに出てくるややレトロな建物、ノスタルジー感溢れる風景、味わい深いナレーションが昔から好きだったんですよね~。
別に制服案やコンセプトに生かそうという考えもなし、ただこういったもの建物やテイストのジャンルが言語化できれば検索もはかどって眼福なのにな~…といった思いからこんなツイートをしました。
そんな私にリプライで助け舟をくださった火辻さん(@fire_sheep3)、にくさかさん(@29_sakana)、かぷちさん(@manunuyama)!
アールデコ、擬洋風建築、ヴォーリズ建築…どれも初めて聞く名前でしたが、いただいた言葉を検索してみるともう…!参考用に作った自分で集めてきた画像よりももっと自分の脳内イメージに近いもののオンパレードではないですか!あのときはめちゃくちゃ興奮してしまいましたね…!(本当にありがとうございました♡)
自分の中にある「洋館」(※海外のではなく日本に建っている洋館)というものへの憧れに気づき、そうしてくわしく調べていく中で、幼少期に母の里帰りで倉敷に行くたびに観光に行っていた美観地区にある建物がまさに擬洋風建築によるものだったことを知り、なんとなく自分の中の点と点が線になっていく感覚…。
母は実母(私にとっての祖母)とは決して仲は悪くないのですが、母娘にしかわからない何かがあったようで、里帰り1週間の最終日、明日には帰るという日の夜になると必ず祖母と喧嘩をするのです。(ちなみに父は里帰りにはついてこない、祖父は私が赤ちゃんの頃に死去。)
それは私にとってひと夏の昏い風物詩ともいえるようなもので、母にとっては一種の子ども返りでありメンタルデトックスであったのかもしれません。
母は涙ながらに子ども時代に祖母にされて・言われて傷ついた思い出を一つひとつ語りながら祖母をなじり、祖母は言い訳がましく自己正当化するようなことをグチグチと述べる…という状況が何時間も。
まあ数時間もすると、「疲れたし、みんなでご飯でも食べに行くか」という感じで収束するし、あまり深刻なものではないんですけど。
私はその喧嘩のあいだいつも感じていたことは、「今は母は子どもの頃に戻ってるんだなあ」ということと、「じゃあここにいる私はなんなんだろう?」ということでした。
自分ひとりを置いて、それ以外のものがすべて数十年前にタイムスリップしてしまった感じ?いや、むしろ、私だけが別時空の彼方にポーンと投げ出されてしまったみたいな、そういう宙ぶらりんの感覚でもってその時間を過ごしていました。
「母はいま少女の頃に戻っているんだから、大人になった母が生んだ私という存在はいまは気配を消していなきゃいけないな」と。
その一方で、いい切り時で「お腹が空いた!」「もうやだ!」とわざと子どもじみた仕草で騒いでみせることで母を今この瞬間に呼び戻し、うまく現在に戻ってこれるような橋渡しをすることも自分の義務であるように感じていたと思います。
そして、私がそうした役割を意図的に演じていたことは母もきっと無意識に気づいていて、思えば3人はどこか共犯者的にひと夏の茶番を毎年演じていたのかもしれません。
そして私は確かにあの瞬間、母が少女時代に戻るのをその内側から追体験するような、そういう不思議な感覚でいたんです。
それは子が親を労わろうとする慰めの気持ちだったのかもしれないし、もしかしたら私の中にある好奇心とか、共感性の発露?みたいなものだったのかもしれません。
まあ一方で、母が母じゃなくなっちゃうような気がして、怖かったり寂しかったのも事実ではあります。
だから、私が古い擬洋風的な建築物だったり故郷を思い出させるようなノスタルジックな風景にどうしても惹かれてしまい、その寂しさに一抹の安心感を覚えるのはこういった背景があるからなのだと思います。
火辻さんにいただいた「洋館」というワード、にくさかさんに気づかせていただいた「擬洋風建築」との因果、そしてかぷちさんにご紹介いただいた遺愛学院の校舎の写真を見て、ふと小説『麦の海に沈む果実』(恩田陸)の舞台として登場する学園がすごく好きだったことを思い出します。
ここで自分の中の自問自答にビッグバンの予感を感じます。
何かが大きく別方向へ転換されたような感覚がありました。
なぜだか、階段をのぼっていく少女たちの笑い声と軽やかな足音が聞こえる、そういう風景がたびたび思い浮かぶようになるのです。(なんのこっちゃと思われるでしょうが、この段階ではまだそっとしておいてください…)
とはいえ、まだその方向へは乗り出さない自分。
「和と洋のレトロ感ある融合が好きなのかな~、コンセプトは書生さんとか女学生とかどうだろう?本好きだし、教養ある人間になりたいしな~」とか考えておりました。
なんだか制服案①の千草とも親和性ありそうだし…ということで、この辺りから以前より興味を持ち始めていた番傘や雪駄などのアイテムを制服案に取りいれようかな~と考え始めます。
こういう雰囲気ね。
世界観のテイストとしては、森見登美彦さんの小説の雰囲気を意識しています。
偏屈でヘンテコで愛らしくて…そういう平和な世界観の中で軽やかに生きる感じ。
とくに『有頂天家族』は原作の小説はもちろんアニメのほうも大好き!
だから、書生さんとか女学生さんをコンセプトにする場合は、テーマソングはアニメ『有頂天家族』の作中の音楽でいちばん好きな「ほどほどの栄光あれ」か、エンディングテーマの『ケセラセラ』(fhána)だなと。
場所でいえば、やはり京都ですね。
はんなり、さやさや…という感じ。
「追想」とか「ノスタルジー」などのキーワードはここでは完全に忘却の彼方。
というか、たぶん意図的に見ないことにしています。
なぜかと言えば、ノスタルジーな雰囲気が好きということはもはや自分の中では当たり前のことであったし、今さらコンセプトや制服案に反映させるのも…という考えもあった。今思えば、その「当たり前」が自分のコンセプトなのではという突っ込みも入りますが。
そんなこんなで、書生さんや女学生なんかを意識しつつ自問自答をすすめる日々。でもなんかあんまり世界が広がらない。奥行きが出ない。すごく表層的。
「ほかの自問自答ガールズさんたちとは違って、私の世界なんてちっぽけな奥行きのないこんなものなのだ…。だって未受診だし(※抽選に1回落選)……思えば私の人生、ビンゴだって一度もビンゴになったことないし、人生ゲームではいつもビリで多額の借金を抱えてた…」という若干の落ち込み時期に。
※自問自答は誰かのものを参考にするものではあっても比較するものではないし、私はこの命果てるまで今後も自問自答ファッション講座には応募しつづけるので元気です。もちろん未受診で自問自答をツイッターやnote上で展開されている方の自問自答内容を卑下する意図もないです。
そんなときにネットで注文していた赤い薔薇のブローチが届きます。
「うーん…やっぱり好きだぜ『六番目の小夜子』…!」(※恩田陸の小説)と悦に浸っておりました。
解説しますと、私の好きな小説に『六番目の小夜子』というのがありまして、こちらはNHKにて実写ドラマ化しているのです。
栗山千明さん、鈴木杏さん、山田孝之さん、松本まりかさん、勝地涼さん、山崎育三郎さん…と今思えばキャストも大変豪華。
この作中において赤い花というのがお話に効いてくる小道具のひとつなのです。
始業式の日に赤い花を活ける、それがその学校において「サヨコ伝説」のはじまりの合図。
その薔薇の鮮烈な赤色が映ったシーンが小学生の私にはたまらなく魅力的で、大人になった今でも大きなロマンを感じてしまうのです。
「花のモチーフは可愛いから自分には似合わない、しかも薔薇なんてめちゃくちゃ女性的!」「赤色似合わないよなぁ…」という長年の思いを吹き飛ばして、ハンドメイドの薔薇ブローチを購入するに至ったのでした。
もちろん身につけるときは逆さにね。
今の書生さん・女学生の持つ世界観は、爽やかで涼しげでキラキラ光りながら流れる川みたいものでしたので、『六番目の小夜子』の重厚感ある若干のホラーテイストとはどうあっても共存できない。
でも、『六番目の~』の世界観はとっても大切なものだから、自分の心の核の部分だけで大切に大切に愛でるんだい…!という気持ちでおりました。
今思えば、その「大切なもの」が自分のコンセプトなのではという突っ込みpart2ですな。
そんな中で、noteにて「かわいい・きれい・かっこいいと言われたら」の記事を書きます。
その中で、まとめとしてこう書きました。
これは私にとって混じり気のない本音の願望なのですが、同時に私の中の大いなる欺瞞でもあるのです。
一見ぶっきらぼうに見える人が実は面倒見がいいように、一見誰に対しても公平でにこやかな人が誰にも心を開いていないように、人間というのは表層に見えている/見せているものと内面が真逆だったりすると思います。
まあギャップというやつで、なんかすごく面倒見が良かったりするように見えるだけという説もあるかもですけど。
私の「あなたって独りでいても、なんにもなくても、楽しそうと思われたい」という気持ちにも、また真逆のものが潜んでいるのです。
それは「私は独りでも平気だと思わせなくてはいけない」、そして「自分が傷ついていることを他人に悟られたくない」というめちゃくちゃ強い願いです。
「73の質問」の記事でも書いたのですが、私は考えていることを表情に出さないのが上手い。
それは、自分の傷つきや弱い部分を絶対の絶対に人に知られたくないからです。
まあ隠している内容はバレていなくとも隠していること自体はバレているみたいで、職場の人に「湖森さんはポーカーフェイスだから心配だってみんな言ってるよ」と心配されて、職場ではにこやかに賑やかしキャラでやっているのですが、ちゃんとバレてるんだな他人ってすごいなって思いました。
自分の傷を他人と共有したくないのです。
最後まで自分だけは精神の柱をしっかりと建てておきたい。
病床の母がもう危ないかもしれないという病院からの連絡を受けて、父と父方の祖父母(我が家は二世帯住宅)とともに車に乗り込んで病院に向かう途中で、憔悴しきった祖母に「こんな中でも〇〇だけは落ち着いてるね…」と微笑みかけられて、私は何かとんでもなく呪われた宣告を受けたような心地と「私だけはしっかり気持ちを保たねば」という今思えばティーンエイジャーにしては健気すぎる決意を胸にした記憶が昨日のことのようによみがえります。
母が亡くなってから家族の前で泣いたことは一度もないし、人前で泣いたことも一回しかない(幼馴染の前で)。
そのことを30歳になろうという今でもどこか誇らしいことのように思っている私は痛々しくもあり、愚かでもあるような気がするのですが、そういう性格になってしまったものは仕方がない。
母を亡くしてからはやや鬱のような感じで、とくに大学生の頃は大変だった。
大学生は自由に使える時間が多いのですが、その時間を考え事に費やしてしまっていたので、思考はどんどん自己嫌悪に向かうばかり…。
対人恐怖症気味になってしまって、電車に乗れば乗客が全員自分を奇異の目で見てくると感じていたし、すれ違いざまに人と肩がぶつかったときにはそこに自分に対する悪意を感じていたし(実際は私がすれ違う人たちの目が怖くて真下を向いて歩いていたせいかも)、かといってたまに楽しいことがあれば「自分はいま楽しいと思ってしまっていた…」と謎の罪悪感。
そういった理由で、できるだけ自分の気配を消したくて年中黒っぽい服を着ていました。長く長く喪に服していたのだと思います。長すぎるくらいに。
だから私は、今後の人生で「黒い服」は着ないと決めています。それは私にとって「死者に祈るときにだけ着るの」(by宇多田ヒカル)だからです。
また話が逸れましたが、「私は平気」ということを世界に対して示すため、それをマイルドに覆い隠した願望が「独りでいても楽しそうと思われたい」なのです。
それはのん気さやリラックス感の糖衣をまとっているけれども、実際は極めて緊張した自制の檻の中に自分を閉じ込めるようなものでした。
そのことに気づいてしまった。
私はけっこう冷たい人間だし、そういう自分は嫌いじゃない。
(確かにグータラするのは好きなんだけど)ファッションで100%のリラックス感や人の好さを表現するのは何かが違う。
冷たい人間というのは自己卑下ではなく、冷静な自己分析なのです。
人への親切心は大切にするし、職場でのキャラクターや振る舞いを変える気もないけれど、せめて自分自身には嘘をつきたくないのです。コンセプトに対しても。
ひとつ糖衣を脱ごう…と思った瞬間でした。
そして、その数日後には小夜曲(サヨキョク)さんというところで三拍子をかたどったイヤリングを購入し、それが家に届きます。
このラッピングがね…最高なんですよ。
白い箱に「小夜曲」という端正な文字がうっすら透けていて、これがまるでドラマ『六番目の小夜子』の作中に出てくるサヨコからの手紙を思い出させて大変にエモいのです。
このラッピングを見た瞬間に第二のビッグバンが自分の中で起こります。
「駄目だ…無視ししようとしてきたけど、やはり抗えない。私はこういう世界観が狂おしいほど大好きなのだ…」と明確に強烈に自覚したのです。糖衣に敗北した瞬間です(むしろ勝ったのか?)
この時期は、「とはいえあの繊細で美しい世界観は自分には似合わないのではないか…」と落ち込んだり、
「私はあんまり社会の訳に立つ気がないんだなあ」と気づいたりする日々を慌ただしく過ごします。
そんな中、あきやさんのnoteを拝読し、さらに深まるコンセプトへの自問自答…。
職業名にこだわる必要はなくとも、世界における何らかの「役割」みたいなものは欲しい…。
まずは私の中にある理想の洋館の中で私が何をしているのか考えよう、と思い至りました。
しかし、これがねえ…何もしとらんのですよ。
開けた窓からそよぐカーテンに寄り添いながら洋館の二階から窓の外の景色をぼんやり見ていたり、白い漆喰の壁に重厚感ある意匠を凝らした手すりを触りながら階段をあがっている自分、自分の部屋の机にむかってペンを持ち何かを考えているところとかは断片的に思い浮かぶのですけどね?
これを何らかの「役割」にするのは難儀なことだぞ…と迷子に。
しかし、ここはあえてそっちの妄想世界に思いきってアクセルを踏みきることで晴れる霧もあるんじゃないかと思って。
私の妄想の世界、好きなこと、自分だけが持っている感覚について思いを馳せることが増えるようになります。
で、一つ思い浮かんだのですけど。
皆さんは「見たことがないはずの風景が頭の中に思い浮かぶ」っていう経験はありますか?
これ、デジャヴ(初めて体験することを以前も体験したかのように感じる脳のバグみたいなやつ)と同じ現象なのかはわからないんですけど…。
私は小さな頃からこの感覚がけっこう頻繁にあって、見たこともない風景(3秒くらいの映像)が急に脳内に流れてくるんです。大人になった今も、回数は減ったけどたまに。
「見たことがない風景」といっても、異世界とかワンダーな感じの風景じゃないのです。
真夏のバス停ですごく爽やかな水色のベンチと、その先に赤いコカ・コーラ社の自動販売機があって、たぶん自分は男子学生で…。
とか、そういう現実的でこの世のどこかに絶対あるであろう風景。
だけど自分では一度も見たことのない風景。
そういうのがふとした瞬間に、夕方に町を歩いていてどこかのおうちから晩ご飯の匂いがふわ~っと風にそよいできたときのような感覚で、突発的に頭の中で再生されるんですよね。
それが幼少期の私にはとても楽しくて、「お!また来たぞ!」って感じで、そのフィルムを眺めてぼんやりするってことがありました。
そうした風景はたいていノスタルジー感あふれるものたちで、私自身はまだノスタルジーという概念も、そもそも「懐かしい」という感覚すら知らない年齢だったのですが、なんだか別の誰かになったような心地がして面白かったです。
私はお化けも神もスピリチュアルも前世も来世も何も信じていないし、そういうのに科学的だったりな根拠がつくほうが面白いと感じるタイプなので、こういう感覚のことをどう内側で処理していいのか結論が着かないのですけど。
超現実的に言うと、私はけっこう小さい頃から活字好きの読書好きだったので、お話を見てイメージした風景が脳に残っていたか、もしくはテレビで見たものを覚えていただけなのだと思います。
(あるいは、何か現実逃避とかそういうやつ?
でもそういう背景に心の苦痛みたいなものが潜んでいた気はどうもしないのですよね。)
でも、ほんとのほんとにコッソリ白状するならば、私はこれが今すれ違った人混みの中の誰かの記憶の中にある過去のひと風景だったら嬉しいな、と思うのです。
誰かの心の中にある、別に重要ではないしわざわざ取り出して眺めるような思い出でもないんだけども、それでも完全に記憶から消してしまったら寂しくて心にポッカリ穴があくような、そういう記憶、そういう過去。
私たちはそういうものの上に立って、今を生きているんじゃないでしょうか?(急に読者の方に問いかけていくスタイル)
あとは、誰かが過去に見た夢の中のワンシーンだったら…とかね。
それを本気と書いてマジで信じているわけじゃないんです。
そう考えたら楽しいねってだけ。
誰にもそれが嘘か本当か証明できない、証明するすべがないわけなので、勝手な解釈つけ放題です。
私の洋館での過ごし方が断片的な映像なのは、子どもの頃に見たこの数秒間のデジャヴみたいなものの影響を受けてるんだと思うなぁ。
まるで8mmフィルムの映像みたいだな…と思ったらハッ!とするものがあって、youtubeで試しに8mmフィルム(風)の映像を観てみると、うーんこれは正にど真ん中に好きなテイスト!✨となりました。
宇多田ヒカルさんの『One Last Kiss』のPVの冒頭の感じとかも好きだな。
言葉としての使い方は違うだろうけど、なんかフラッシュバックって感じ?
これ何の話かしら…?ってな感じかと思うのですが、つまり私にとって「ノスタルジー」という要素はとってもとっても大切で、それをコンセプトの軸に据えていきたいというお話でした。長かったー。
そして、大切なもう一つの要素として「恩田陸さんの小説」ね。
そうなのです、大好きなのです恩田陸(敬称略)の小説の世界観が!
ほんとのほんとは、恩田陸の小説の雰囲気(もちろん作品によって違いはあるけど)を自分なりにファッションで再構築したいという思いがあった!
さっき言ってた「階段をかけあがる少女たちの笑い声と足音、でもその姿を目に捉えることはできない」というあのイメージ映像というのはですね、まさに恩田陸イズムの世界観なんですね。(注・個人的解釈です)
ぶっちゃけ自問自答ファッションに出会う前から私は『木曜組曲』(これも恩田陸の小説)に登場する女たち(経緯を持って「女」呼びです)に憧れがあってこんな風になりたいなーと思ってた。
マチュア(成熟)で、毒舌で、物知りで、どこか少女みたいで、全員が物書き(ライターだったり、小説家、編集者などなど)。
が、それをつい最近まで封印、そして忘れてたのです。
だってただの恩田陸オタクじゃん…と思ったのが理由の一つ。
誰かの創作物に自分のコンセプトを丸ごと乗っけていいのか?それは自問自答の手を抜きすぎなのでは?という不安が二つ目。
でもねぇ、試し運転で「恩田陸の小説の世界観をモチーフにするなら」という観点でいろいろ考えてみたり、アクセサリーをネットで購入してたりするとね…もうファッションのいろんなアイデアがとどまるところを知らないのです…!
しかもその選択のすべてに「これでいいのだ!」という選択がみなぎっている。
だって何が正解か私しか知らないからね。
オリジナリティのなさを後ろめたく思ってたんだけど、恩田陸の小説の解釈は読者によって多種多様だろうし、それをファッションアイテムに反映させるとなればそれはもうオリジナリティといってもよいのではないだろうか?
「やっぱりクラシカルで少女的な感じだよね~まずは靴から考えていきたいからレースアップシューズかな?」「いや違うな…恩田陸の小説に登場する人物が履くのはレースアップシューズじゃない!オックスフォードシューズだ!」みたいな。
別にレースアップシューズとオックスフォードシューズは大した違いがないというかカテゴリの大きさが違うだけなのかなと思います。「小型犬」と「チワワ」みたいな。
でも、恩田陸はたぶん「オックスフォードシューズ」という活字のほうが好きだぞきっと…みたいなわけのわからないオタクの遊びをしてひとりケラケラ笑っていました。よくわかんないけど。
『三月は深き紅の淵を』のモチーフであるザクロは、フットネイルの色で取りいれたいな…あ、でも調べたらザクロって自分のイメージしていたのより明るい赤だな、ちょっとセクシー過ぎて苦手かも。いいや!ザクロという果物はもっと暗い赤ってことにしちゃえ!ボルドーのネイルで!
とか、
『木曜組曲』からは五角形のテーブルをメインモチーフにしよう。五角形のシンプルなイヤリングとか変わってて面白いかも。へえ~五角形ってモチーフとして魔除けの意味があるんだあ。「城や要塞にも五角形(ペンタゴン)を用いたものが多く、敵は中心に向けて攻撃することができない」かあ。心の中を見られたくない気持ちが強い私にはピッタリだなあ。
とか、
個人的に恩田陸の小説において最多頻出ワードだと思っている「蛇行する川」という一文。そのものズバリ『蛇行する川のほとり』というタイトルの作品もある。恩田陸さんにとって、「蛇行する川」というのは何かすごく心に残る原風景なんじゃないかしら、幼少期にお住まいだったところのそばに川があったりしたのかな?これはぜひともイヤリングで取り入れたい。カーブしたパーツの入ったイヤリングで蛇行した川の流れを再現したいワ。
とかとか。
(すずらんのイヤリングを購入する際に、すずらんモチーフは多々ある中でこちらにしたのはカーブのパーツが含まれていたからなのだ!)
そういうこと考えているのがすごく楽しくて。
そして、恩田陸の小説といえば表紙の絵でおなじみの北見隆さん。
この方もとても大好きなのです。
赤川次郎さんの小説の表紙で見たことある方も多いのではないでしょうか。
下の画像は恩田陸『黄昏の百合の骨』(大好きな「理瀬シリーズ」!)の挿絵のうちのひとつなのですが、もうこのワンピースにセーターのファッションなんか丸ごと真似したいね。
大好きな恩田陸の世界観を忠実に、そして素敵な要素を加えて絵にしてくださっている北見隆さん。
制服案を考える上で参考にしないわけにはいきません!
ということで、以前からずっと欲しかった北見さんの画集を購入。
画集は仕事をした作家さん別にその小説の表紙絵・挿絵をズラ~っと豪華に並べているのですが、その中になんと恩田陸さんからの寄稿が!
しかも『三月は深き紅の淵を』の登場人物たちの会話劇!
登場人物たちがメタ的に、北見さんと恩田さんのタッグの歴史をふりかえっている感じですね。
そしてその中に気になる一文が…。
「ブッキッシュ」ってなんだろう…?
この直前にいろんな海外の画家の名前が出ていたので、人名とか絵画の画風とかそういうやつかな…と思いつつなんとなく気になってネットで調べる(普段はあんまりこういうことしない)。
あわわわわわわわ…!
これってまさに私のこと!「ブッキッシュ」って「book」か。
本が好きで、教養あるテイストのものに弱くて、そして机上の空論が大好きな現実逃避人。(「軽蔑して」という補足が痺れるねェ…!)
この瞬間、第三のビックバン。
生きてきてこんなにも自分にしっくりする言葉はないぜ…。
形容動詞?俺バカだからよくわかんねーけど(英語は5段階評価で常に3たまに2)、最初の文字を大文字にしたら名詞になるんだろ?
ということで、私は私のことを「Bookish」と名乗ることにしました。
本当は人間のことをさすときは「bookish person(読書家)」となるのが正解みたいなのですが、いいんですBookishのほうが座りがいいので。
じゃあ私は何をするBookish?
現時点ではやはり自分の「役割」がわからない。
Twitterのほうで、自分はマニュアルや資料づくりが得意で好きなことから「再構築する人」というアイデアを今走らせてみています。
社会生活では、「たくさんの情報を有益に、わかりやすい形に再構成しなおすマニュアル作成人」、自分だけの世界では「大好きな小説の世界観を咀嚼し、自分の発想でファッションとして再構築する人」というね。
ここんとこが現実社会と自分の世界のうまい兼ね合いな気がします。
完全に同じ時間軸・世界観を生きることはできず、「再構築」という要素ひとつでなんとかつながっている感じ。
後者の世界観でいうならば、
私のコンセプトは「古い洋館の中で8mmフィルムの夢を見るBookish」
なのです。
最近は、アクセントカラーだったり、英国トラッドにも興味が湧いてきているので、ほんのちょぴっと発展させるとこんな感じにも。
あとは、アクセサリーや小物の方向性についてはこんな感じで。
補足すると、「ブローチはレトロに」というのはイメージとして、
時間の止まった洋館で埃をかぶったアンティークの箱を見つける。箱をあけると中には誰かが大切にしまっていたたくさんの美しいブローチたちが所狭しと入っている。その瞬間、洋館の止まっていた時間はふたたびあの頃に戻り、ゆったりと時は流れ出す…。
というイメージで選んでいるのです。
そんなこんなで、コンセプト仮決定です!
仮なのは、あきやあさみさんの書籍を拝読してからさらにブラッシュアップしていきたいから!
このnote書くの間に合って良かった〜…。
私の見ている夢に長らくお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
それでは。
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