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青山忠成宛 徳川家康の領知判物(天正20年 相模国東郡)

今回紹介するのは天正20年(1592)の徳川家康による領知判物とその領知目録です。家康の花押が付いています。1590年に豊臣秀吉の小田原征伐によって関東を治めていた北条氏は戦国大名としては滅亡しました。
その後、秀吉に命じられ、家康は関東へ移封となりました。その2年後の書状となります。

領知判物

相模国東郡之内
五千石並野山
林池川等事
右出置之訖永
可令知行者也
仍如件

天正廿年
二月朔日 (花押)
   青山藤右衛門とのへ

相模国東郡の5千石を宛行う判物です。
当時の東郡は高座郡に属するようです。東郡全域を有したわけではないと思いますが、現在の神奈川中部で相模原市から藤沢市にかけての地域です。
小田急線沿線と言った感じです。気になるのは「野山林池川等」と書かれた部分ですがどこを指しているのでしょうか。

この藤右衛門(青山忠成)が江戸近辺で構えた屋敷の周辺が現在の東京の青山の由来となったそうです。藤右衛門が馬で駆けた土地を家康からもらった伝説があります。あくまで伝説ですが、馬で駆けてる間、家康はその様子を見ていたのでしょうか。現在の青山を車で周るにも結構時間が掛かりそうな広域な地域です。ちなみに、こちらの記事で紹介した家康にお歳暮を出した家臣と同一人物です。

領知目録

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相模国東郡之内
一、弐千弐百八拾三石三斗七枡七合 恩馬郷
一、四百四拾五石弐枡六合 用田郷
一、弐百七拾三石壱斗四枡八合 吉岡村
一、百弐拾壱石四斗七枡八合 今田郷
一、八百石三斗弐枡八合 國分郷
一、千弐拾七石壱斗九枡 今泉村
一、百四拾九石九斗八枡 柏ヶ谷村
一、五百七拾三石五斗九枡壱合 溝之郷
高合五千六百七拾四石四斗壱升八合

現在の行政区分だと以下のようになります。
恩馬郷:海老名市本郷
用田郷:藤沢市用田
吉岡村:綾瀬市吉岡
今田郷:藤沢市今田
國分郷:海老名市国分
今泉村:海老名市今泉
柏ヶ谷村:海老名市柏ヶ谷
溝之郷:相模原市上溝、下溝

相模国東郡の有した場所と石高が書かれています。
石高の合計は5674石4斗1升8合です。
江戸時代の領知目録と比べると紙の質も違いますし、担当役人の名前も記載がありません。中小企業と大企業のような違いでしょうか。

国分は大山街道を通りますが、江戸方面へ向かうと現在の青山通りから続いています。おそらく、忠成の江戸屋敷からは一本道で行くことができたのでしょう。

家康の花押

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こちらが家康の花押です。「徳川家康 花押」で調べると同じような形であると確認出来ました。素人的に考えて花押は真似出来そうに思えるのですが偽花押とか出回らなかったのでしょうか。

追記(23/5/12)
忠成の4男で、分家筋にあたる青山幸成の家系と縁がある郡上八幡では、こちらの領知判物の写があるようです。下記、郡上市歴史資料館のデジタルアーカイブから確認できました。写なので、特段違いはないですが、『播磨事 青山藤右衛門』と忠成の晩年の官職名が写には記されています。


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