2022/06/28

 幼いころ、救急車のサイレンの音が聞こえると、つらくてたまらなくなった。誰かの日常が壊れたことを、告げ知らせる音に思えたからだった。それは間違いではないだろう。しかし、救急車がサイレンを鳴らすのは、むしろそれが決定的な破滅になることを防ぐためである。幼いわたしは、それでも悲しかった。誰かの日常が、壊れることがあるということそれ自体が、悲しくてたまらなかった。誰の日常も永遠に決して壊れることがない世界を、わたしは望んでいたのだろうか。

 今では、救急車のサイレンが聞こえても、とくになにも思わなくなっている。それは当たり前のことだと思っている。今のわたしは、誰の日常も壊れることのない世界を望んではいないのだろうか。なぜ、わたしはそれを望まなくなったのか。なぜ、それを望めなくなったのか。

 わけのわからない生誕につづく、不断の挫折の連続のなかで、わたしは世界が思い通りにならないことを覚えていった。この世界のままならなさをわたしは受け入れていった。そしてそれはわたしの知覚を決定的に変えた。未来に蚕食する現在に、絶えず浸透する過去の記憶によって、わたしの知覚は決定されている。これはベルクソンの本に書いてあったことで、それが本当であるかどうか、正直なところわたしにはよくわからない。

 思い出すことのない記憶すらも、現在の知覚に浸透していると考えると、ふと恐ろしいような気がしてくる。今では、何もかも忘れてしまったような気持ちになることもあるが、それでも何ひとつとして完全に忘れられることはないのだとしたら?わたしが世界のままならなさを、持ち堪えていまも生きているということ、そのあきらめの重たさに、身がすくむような思いがする。過去の或る出来事が、決してなかったことにはならないということに、わたしは怯えているのだろうか。傷ひとつない清廉な世界を、いまだにわたしは夢見ているということなのだろうか。

 一度眠ってしまったら、次に起きるときには前夜とは別人になってしまっているような感覚、前日に決心したことが、途方もなくよそよそしく感じられる感覚、数年前の出来事が、いまの自分にとって何にもなっていないという徒労感、わたしが感じていたように思っていたそれらの感覚は、本当は気のせいで、わたしが非連続的なものであるように感じていたわたしは、ずっと続いていたのだろうか。過去の経験が、いまのわたしを作っている、時間は流れ続けていると、はたして言い切れるだろうか。

 わからない本を読むのは、たのしい。

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