2023/06/10

 牛乳パックが綺麗に開けられない。ネジをまっすぐに締めることができない。立体視ができない。キリストのことが書かれていない本は読みたくない。いつも死んだ人のことを考えている。社会保険料や年金、奨学金を払い続けなければいけないことを考えると気が重くなる。あってもなくても何も変わらないような仕事をしている。何かを書くことが好きであるかどうかはわからないが、少なくとも読むことは好きだと思う。どのようなことが、どのように書かれているのか。自分でも書いてみるようなつもりで、内側に入り込んでいくような心構えをするのであれば、いかなる文章でもそれなりに面白く読むことができる。歳を取って、気持ちが落ち着いて、当分やらなければならないことが、はっきりと見通すことはできないにしても、大体のところは決まっている。それさえこなしていれば、耐え忍んでいれば、雲が流れるようにして日々が進んでいく。それはそれで、楽なことではある。朝に起き上がることさえできれば、その日はほとんど終わったようなものなのだ。こなさなければいけない課題は決まりきっている。他のことはあまり関係が無くなってくる。関係が無くなってくると、あまり興味もわかなくなる。それは以前から気兼ねしていたことで、大学生の時に書いたものを読み返しても同じようなことが書いてある。その時にはあくまでも不吉な予感としてであったが。
 私はいま、マニエリスムの本を読み、16世紀のことばかりを考えている。ジョン・ダンの詩や、望遠鏡を覗きながら、長い計算をし続けた人々、奇妙に引き伸ばされたねじれた身体を描いた画家、全宇宙を呑み込みかねないような、奇想に富んだフランチェスコの小さな部屋、ローマ劫掠の悲惨な光景、鏡に映ったイメージ、無限に中間的なるものとしての人間像が、おぼろげながら直観され、その遠い予感に身を震わせているような時代を、本を読みながら想像している。大いなる不安の只中で、甘く暗い夢を見続けていた時代のことを夢見ているのだと言ってもいい。それはそれとして、ティッツァーノの絵画に含まれた寓意の意味がわかるようになったとして、カラヴァッジョが活躍した年代を覚えたとして、ルネサンスを支えた宇宙観に精通したとして、なにか生活が変わるわけではない、という気持ちがどこかにある。別に生活など変わらなくてもいいようにも思える。頭の中で何を考えていても、ほとんどのことは生活、毎日することになる具体的な用事、身の回りの人と交わす話題、必要になったものへの支出、そういったことには影響を及ぼさない。このような考え方はみみっちく、俗物的で、浅はかなものであるかもしれない。それを自覚したところで、嫌悪してみたところで、この考えは動かしがたいもののように常にあり、それが私の見るものを色褪せて、重苦しいものにしている。
 私に関係していることのすべてについて、書き出してみたいと思う。くだらない事柄についてであっても、これは一つの回復のための試みなのだから。いま、どのようなものが、どのような事情で、私に必要になっているか。それは、なぜ過去のいかなる時点においてでもなく、この瞬間に必要と感じられているのか。そのようなことを無心に、一本気に、粘り強く、点検してみたいと思っている。そうする必要を感じている。座り心地の悪い椅子に尻を乗せて、じっとしていると、どこかに出かけてしまおうかという気持ちになってくる。その時に頭に浮かぶのは、コンビニ、喫茶店、100円ショップ、無印良品、ユニクロ、いずれにしても顔のない建物ばかりだ。そのことを恥ずかしく思う。この恥ずかしさとは何なのか。中学生の頃に感じていた、存在することへの羞恥と、同じものなのだろうか。それが未だに現在まで根を張っているのか。何かを書こうとしている際に、恥ずかしいと思ってしまうとろくなことにはならない。

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