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▼小宮ゼミ室▼他人の死で安らぐ人、他人の死でよろこんでしまった人。

小宮です。突然ですが、オンラインゼミ室を作りました。

これから、ソーシャルワークの現場で経験した話や、相談援助に関わる話をたまーに書いていこうと思います。プライバシー、個人情報には慎重に配慮しなければならないので、特定のケースを深堀することはできませんが…。早く小宮ゼミ生ができると良いな。

このゼミ記事は他の記事と差別化するためにも、有料マガジンにしました。もし新人ワーカーさんや、将来ソーシャルワーカーの現場を目指している人たちがいれば、少しでも学びになるようなことを提供できればと思います。教科書のようなすごいことはできませんが、現場経験から提供できることは少しあると思うので…。もし続けば、社会福祉士のこと、国家試験のこと、一般的なソーシャルワーク論についても勉強しながら皆さんにも発信できればと思います。あとは、クリエイティブな人、物づくりに生かしたい人、お芝居をされている人とか書き物をしている人とか…そういう人にも参考になればな、と。

あくまで持論ですけどね。お手本にはなれないけれど、ヒントとして発信します。

さて。

みなさん、自分が死んだあとのことについて考えたりしますか?…死んだ後と言うのは、死後の世界ではなく、自分がこの世からいなくなった後の、残された人々の生活です。

私は、そのクライアントが死ぬまでの支援、そして、死んでからの葬祭、相続や財産処分等に関わってきました。周りに垣間見えるドラマと言うのは、本当に千差万別、複雑なものが多々ありました。そりゃあ、人の支援が介入するということは複雑であって当然ですけれどね。

最近、かつて自分が支援していた方が亡くなられた際、そのご親族がお礼を言ってくれました。その方はいわゆる長年「毒親」の存在に苦しんでいた方で、そのクライアント本人は大変に立派な人物でしたが、同時に、多々周囲の人々や支援者をギブアップさせてきた「強者」でした。

親が死に、その人は何か大きな変化がありました。そして支援者の一人であった私もまた、その人の死でようやく何かが終わったように感じました。その人が死んで、周りが前向きになろうとしている動きが起きた訳です。

人が死んだら悲しむ、とは限らない

ですよね、これ、大前提です。そしてこの大前提が、今日の話です。

「死」というワードがあまりに強すぎるので、それによってどうなるか、という部分に焦点をあてます。

つまり、その人が死ぬということは、「その人が居なくなる、もう二度と会えなくなる」ということです。その現実の悲しさ、辛さ、というものは本当に乗り越えるまでに時間がかかったりする訳ですが、「居なくなってすっきりした」って場合もありますよね。それは、生き別れだろうと、「死」が伴っていようと、共通する部分があると思います。

※この思想がより強まり、さらに「死」という点と人為的な死(=殺人)を軽視あるいは無視すると、人の死を望み、犯罪になってしまうのかもしれません。

その人の死を待つ人もいる

これもまた現実です。ドラマなんかで「お願いだから死んでくれ」なんてセリフがあったりしますよね。また、毒親を抱える人にとっては本音として抱えている感情だと思います。人がいなくなることを望んでしまうということは、幼稚、社会不適合だという印象、いけないことだというレッテルとして捉えがちですが、そうではありません。許してもいい感情だと思います。

私自身、「毒親」と思える存在が、親と親族の中にいますし、今や田舎との関わりは全くないまま生活をしている訳で。特に母親に関しては、かなり拗れてしまった感情が常につきまとうのです。いいかげん大人にならねば、いいかげん解決しなければ、と自分でも思いますし、人から言われることもあります。でも、焦っても仕方ないし、そう簡単ではないんですよね。放置もいけませんが、無理に解決させようとしてもいけません。そいう現実を、受け入れる必要があり、また、支援者としてそのような課題があるクライアント、環境においては慎重にアプローチすることが何よりのことです。

「死んでよかった」

誰かの支援で周りが苦しんでしまう時、どうしても、そういった感情が存在します。特に親族であったり、場合によっては支援者ですら、あるのです。長年の大きな苦行から解放されるような、ようやく救われる気持ちになることがあるのです。

※ただしアレですよ、それを軽々と口に出してはいけません。そこは人としての気持ちの良いコミュニケーションや、相互の慎重なやりとりの上で取り扱わなければなりません。「死んでよかったでしょ?」なんて勝手な投げかけは絶対にやめてくださいね。今日の話はあくまで人それぞれの心の中の話です。表に出すということはまた違う行為だと捉えてください。

その人から離れることで救われる人がいる

「近しい人が死ぬのは悲しいこと」「親族は面倒も見て当たり前」そんな感情がどこかにあって支援をしてしまっていないか、それは常々チェックをすることが大切です。その判断、自分の価値観に基づいていませんか?と。

他人の人生をお手伝いする際、常に価値観、固定概念との闘いです。そういう仕事だという認識でもって、ソーシャルワークにのぞむことが、何よりの基本であり、最大の守るべきものだと思っています。

…それでは、今日はこの辺で。

今回は結構抽象的な話になってしまいましたが、これから色々書きながらブラッシュアップしていきたいと思います。

KOMIYAMIYAKO

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