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リスペクト

最近でこそ加齢による物理的な自己評価下落に悩みもするが、私は私のことがわりとずっと好きである。なんとなく素晴らしいと思っている。が、そこに理由は全然なくて、なぜだろうと箇条書きしようとすると、いけないところが先に立ち、むしろ素晴らしいの逆になる。それなのに、自分の相手となる人に一定以上の質を求めることがある。『相応しい』の言葉にある通り、私が素晴らしいならあなたも素晴らしくなくては、と。もし、相手が素晴らしい行いができなかった場合、まさに「不当に扱われた」気持ちになるのである。もっと相応しい人がいる、もっとちゃんとした関係がある(べきだ)と思ってしまう。おそらく、人間だけじゃない、会社とか組織にもそれは感じるだろうし、あらゆる関係に当てはまってそう感じる。

その『一定以上』という概念の醜悪さ。普段私は、そういう考えを努めて排除しようとしているのに、何なのか。明らかに間違っている。

民族の困難、地域の不幸、家族と遺伝の呪縛、偶発する悪い事件を、みんな背負って生きている。人類がもっと愚かだった時代のそれらは、どれほど大変だったかと思うが、人間の精神が少し成長した今も、未来も、疫病や災害は続くだろう。つまり、悪いことはたくさん存在する。人は、そういう悪いものをおそらく頭に、体に、取り込んでいる。たくさん取り込んでしまった人もいるだろう。それはもう脳細胞や、血や肉の中に予め入っている。そして、その悪い「虫」が、時々顔を出す。自分でも到底許容できないような、粗末な言動で周りを驚かせたりするのだ。そんな時、

『あなたは相応しくない』

とか冷たく言われちゃう。例えば私みたいな人にだ(今後は二度と思わないことと思う)。(私のような人にそう言わせるのもまた「虫」かもしれない。)なんと貧相で浅薄なジャッジだ。相応しくないなんて。逆に仮に存在する『素晴らしい人』には(不幸な)体験及び基礎が足りていないのではないか?と考えた方がよい。評価の前に、誰もが背負っている「闇」を理解すべきである。ただし、私はトラウマの話はしていない。

「  」書きしたキーワードは全て今日見た映画の字幕に出てきたものだが、作中では、納得できない横暴な人やものに対して女性が『NO』と言うことの意味がテーマになっていた。しかし、私にはむしろ『YES』が聞こえたのである。例え邪悪でも、不当でも、積極的に『YES』と捉えてみないか?寄り添おうぜ?と「神」に言われた気がしたのである。

そしてとても救われた。

多分、読んで、意味がわからないことと思うが、好きな結論に辿り着けた自分の記録に書いた。

https://gaga.ne.jp/respect/






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