見出し画像

イタダキマスをいただきます① 付録コラム#001

謎の言葉イタダキマスを深掘る


現在連載中の「美味しいお米の育てかた」のエピソード10にて

タネの選別と優生思想について考えてみました。


命は命を食べ命になる。そのために行う生命の選別。

自分たちはされたくないが、自分たち以外の種にはしている行為でもあります。


生命の掟を前に、

採取、収穫、狩猟、漁猟、または屠畜し、

人間は生きる糧を得ていながら、残酷だとか非道だとか言う身勝手さ。


そういった矛盾を頭の片隅に置いておき、畏敬の念と尊重を忘れないことが、生命倫理として、また、何かトラブルが起こった時のリスク回避もつながる、と結びました。


しかし、単刀直入に言えば偽善的にも感じています。


世の中はそんなに甘くはない。所詮この世は弱肉強食だ。屁理屈をこねたところで生存競争の原理は変わらないのだぞ。


まぁそう言って仕舞えば話は終わってしまいます。


しかし、せっかくなのでそこを深堀りしていこうと思います。

イタダキマスをいただきます。


神に捧げた御供えをいただく時に使われたのがルーツであるらしい「いただきます」

しかしながら、そもそもです。

いただきます、ごちそうさまとは一体なんでしょう。

こちらは本編から派生した付録記事として別冊版で記したいと思います。

以下は、私が幼い頃に実際に話した母親との会話です。


ある日のイタダキマス

子「お母さん、イタダキマスってどういう意味?」

母「あら、いい質問。それはねー

神様とか自然とか、それと野菜やお肉や、お百姓さん、ご飯つくってくれた人とか、全員に感謝して、このご飯をイタダキマス、という意味よ」

子「そっか!みんなにありがとうだね!」

母「うんうん」

子「あ、でもさ。もしお母さんが豚だったら、あ、いや、野菜でもいいし、卵でもいいや」

母「う、うん」

子「そうだ、ニワトリだったらさー。人間にイタダキマスって言われたら嬉しい?」

母「あー、そ、そうねー食べてもらえてありがとうって、、思うかなぁ」

子「そうなんだ!」

母「そうよー」

子「あーでも、おれは絶対いやだなー!」

母「ん?」

子「おれは絶対いやだなー!」

母「んん??」

子「だってさー!

刃物持って手を合わせながら

イタダキマス、イタダキマスって言って

向かってくるんだょ〜」

母「た、たしかに。。」

子「襲われるんだょ〜

イタダキマス、イタダキマスって

ヒー!!いやだー。まじで怖いよぉ」

母「そういう見方をしたらそうね!」

子「動物とかもきっとそう思ってるよ!

だって逃げるもん!」

母「ほんとだわ!たいへん!あははは

さあ、ご飯にしましょう!」

子「うん!せーの!」

母子「イタダキマース!」


イタダキマス侵略

感謝さえすれば、選別をしたり差別や支配をしたりしていいのか、と。

なるほど確かに。

実際、世界にはそれをしてきた歴史が散見されます。

Thanksgiving Day

アメリカにはThanksgiving Day、日本語で感謝祭という祝日があります。

アメリカ大陸にたどり着いたプロテスタントのアングロサクソンの人々は、慣れない厳しい環境にいたところを、

近くにいたネイティブ・アメリカンの一族からトウモロコシの栽培を伝授され生き延びることができました。

そして、ネイティブ・アメリカンの一族を招いて祝ったことが起源だと言われています。

しかしなんと、ネイティブ・アメリカンから見ればこの日から虐殺の歴史が始まったと解釈されているのです。

それでもアメリカではサンクスギビングデーを現在も多くの人が祝祭日として過ごしています。

出雲の国譲り

日本においても出雲の国譲りなどのストーリーがあります。日本書紀や古事記によれば、

大国主神という出雲の王が天照大神の一族の瓊々杵命に出雲を明け渡すように迫られます。

子供の建御名方神は天照一族の建御雷神と対立。敗北し信州諏訪に逃走。

出雲は瓊々杵命に譲られ大国主神は天神が住むような巨大な神殿に移り住んだというお話し。

これも、実際には侵略だったという説があります。

国譲りだなんて、まるで何もなかったような印象ですが、自分のかけがえのない家族、仲間との生活や土地を譲り渡す人がいるでしょうか。

それはあまり現実的ではないように思います。

イタダキマスとはなんだ

上記からあらためて、イタダキマスを考えてみます。

大いなる対象に感謝

食べる命に感謝をする。自然の恵みに感謝をするというのは、つまりは

大いなる自然や超存在としての神への感謝の表明だとも捉えられます。

母も食べるまでの流れ全てに感謝する、という観点でした。

しかし、幼い私が指摘したように食べる対象と通じ合えるということではまだないようです。

自己肯定と謝罪と供養

または、自分たちの行いを肯定し慰めているのかもしれません。

ありがとうと言いながらごめんなさいと言っているようにも聞こえます。

仏教的には、その対象となる食べられる側の魂を供養する意味もあります。

また習慣という形で大勢の人がやるわけですから、仮に呪詛としてのパワーがあるとしたらなかなか凄そうです。

ここまでで、大いなるものへの感謝、慰め、懺悔、供養という機能が、イタダキマスにあることがわかります。

そう考えるとなかなかレベルの高い言葉です。

母との思い出話も、なかなかのホラーっぷりでしたが、相手の目線に立った想定では尚更一方的感が強まります。

問題は、イタダク対象がイタダク方との相互理解は得られるかです。

母が言うように食べられて嬉しいと思えるか。


その会話から約30数年後


そのことを可能にするかのような体験が待っていました。


続く


映像制作をはじめとした活動費に使わせていただきます。ありがとうございます!