古典への再挑戦

塾講師をしているのだが、きょう火曜日は  「古典」の担当。朝から授業で使うプリントをまとめていた。授業範囲は、個人的に思う古典最大の難所「敬語」。ということで、ずっと「給ふ」「のたまふ」「聞こゆ」「奏す」「啓す」など打ち込んでいたところ、なかなかの字数になっていた。

「たまふ」は尊敬語で、「たまはる」は謙譲語、「のたまふ」ははたまた尊敬語など。敬語はそれぞれ似通っていて、けっこう混同してしまう。いままとめ終わって、頭の中が萎縮しているような感覚だ。

つい最近図書館で借りた『ベストエッセイ2020』の中に、俵万智さんのエッセイがあった。その中で古典の面白さについて、こんなことが書かれていた。

そもそも古典は、なぜ古典として残っているのか。昔の人は、先生に睨まれるからとか、受験科目だからとか、そういう義理があって読んでいたわけではない。ただ面白いから、というのが一番大きな理由だ。(中略)           つまり古典というのは、いいものが揃っていて、ほぼハズレがない。素敵な読書体験が約束されている。

        出典:『ベストエッセイ 2020』

つい2週間前に読んだのだけれど、高校生の時にこの言葉に出会っていたかったなと、純粋に思った。当時、「むかしの言葉なんて学ぶ必要ある?」と思っていたし、「敬語多すぎるだろ」とか文句を垂れていたからだ。ただ、まったくもって素直な高校生ではなかったので、もしかしたらこのエッセイを読んでも反発していたかもしれない。

ちなみに「敬語」は、使用しているテキスト最後の単元。つまりこれが終われば、いよいよ本格的に読解に入ることとなる。

毎週プリントを作成していたこともあり、読解に必要な武器は揃いつつあるのかなという気がしている。高校生の時はまったくと言っていいほどなかった「古典に対する高揚感」を、いまいくらか抱いている。

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