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エレベーターのボタンを押したことさえ忘れて

ビル8階にある図書館に行こうとしたときのこと。1階でエレベーターに向かい歩いていると、小学校3〜4年生くらいの男の子が小走りで僕を追い越し、上向きのボタンを押した。

エレベーターはちょうど上に移動を始めたばかりで、戻ってくるまでしばし時間がかかりそう。 なにをすることもなくただ待っていると、その子はキュッと踵を返す。少し離れた場所にある、絵などが展示されている場所に向かって進んでいた。


エレベーターが1階に戻ってきた。けれども、その子はこちらに背を向けたまま、展示を眺め入っている。声をかけられる距離でもなく、「このまま上に行っていいのかな」と迷いつつ、僕はカゴの中で「開」ボタンを数秒押し続けていた。しかし、一向に気付く気配が無かったので、そっと「閉」を押した。


あの子は、ボタンを押したかっただけなのか。 はたまた、上の階には確かに行きたかったのだけれど、展示に没頭して、ボタンを押したことをひととき忘れていたのか。

どっちなのかは本人にしか分からないのだけれど(どちらでも無いかもしれない)、おそらく展示に見入っていたんじゃないかなという気がする。なんとなく、背中からそんな雰囲気を感じた。

帰り際、「なにが飾られているのだろう?」と、その展示スペースを通ったところ、中学生の描いた薬物乱用防止ポスターの優秀賞作品が掲示されていた。他にも、中学生の描いた絵や彫刻の作品などが置かれていた。


考えてみると、自分がボタンを押したことさえ忘れ、なにかの作品に集中できるのは驚きだ。  年齢を重ねると、こういうことはほとんど起き得ない気がするし、やろうと思ってできることでもないだろう。


最近読んだ文章執筆に関する本の中で、日々の生活の中で「意識的に道草を食うこと」の重要性が語られていた。例えば、部屋の掃除をしているときに、何年も前の古新聞が出てくる。本来掃除をするという目的で言うと、すぐ捨てるなりすればいいのだけれど、あえて座り込んで紙面を眺めるような。このような「意識的に道草を食うこと」が、文章を書く前、頭の中で考えを転がし、思考を膨らませるためには欠かせないといった主旨が書かれていた。

エレベーターでの出来事を考えていたとき、このフレーズがふと頭に浮かんだ。たぶん、あの子は"無意識"で道草を食べていた。上の階に向かうという本来の目的からは外れ、道草を食おうという意思があったわけではなく、自然と引っ張られるように作品に集中していたのだろう。

けれども今の僕が、自分でボタンを押したことさえ忘れるような状態で、なにか本来の目的から外れたものに足を止めることはおそらく無いだろう。というか、そうなっていたら少し怖い。


"無意識で"道草を食べている子を目の当たりにして、"意識的に"道草を食うほかないのかなと感じた。

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