私と劇場版ヴァイオレットエヴァーガーデンと解釈違い



「そうして二人は幸せに暮らしましたとさ」


冒頭の始まり方から考えるに、おそらくそういうお話を描いたんだろうなと思う。
ヴァイオレットが報われてほしい。幸せになってほしい。そういう気持ちが満たされるという意味で最高のハッピーエンドだったんだろうなとも。実際私の後ろの席の人はえづくぐらい泣いていた。感受性が豊かで素直で共感性が高いんだろうなと少し羨ましくなったくらいには、少しひねくれた私はモヤモヤしかしなかった。

愛を知らなかった少女に愛を教え、その愛を糧に必死で生きていく少女の話ではなかったのか。その愛は無償ではなかったのか。そりゃ大人として多少の後ろめたさから来る同情が無かったわけではないだろうけど、空っぽの少女を慈しんだ愛は確かにあったはずなのだ。
でもこの映画版には二人で築き上げた二人にしか持ちえない特別なその絆が、二人の、取り残されたヴァイオレットの苦しみと頑張りを無かった事にしてしまったように感じてならなかった。
ヴァイオレットに関しては疑問は特にない。矛盾を抱え、過去に囚われ、失ったものの大きさに押しつぶされそうになりながら少しずつ人間的な成長したって事を伺えた素晴らしい描写だった。特に少年とのやり取りは彼女の情緒のバランスが絶妙に描かれていて素敵なシーンだったと思う。映像も美しかったし。特に風と花は美しかったなぁ。

では問題はどこかというと、少佐の感情でしかない。
彼が心を折られ心を閉ざした事は別にいい。超人でも英雄でもないただの人間であれば当然の結果だろうとも思う。逃げ出したって別に構わない。よし殴ったれヴァイオレットちゃん!とも思ったけど。


明確にはそうとは描写されていない。しかし私にはいきなり少佐の愛が恋愛へ変わったようにしか思えなかった。え?え?となった。

そこ一番大事なとこでしょって。

だって彼らには確かに絆があって愛があった。ヴァイオレットはきっと愛のカテゴリなんて理解できないだろうけど少佐の与えてくれた愛を大切にずっと胸に抱いていて、与えられた物の正体を知っていったわけで。彼女の愛はピュアすぎてどこにでもカテゴライズできるような形だったと思う。けど少佐は違う。同情と慈しみから来る愛だったはずなのになんでいきなり恋愛になっとるんじゃ。
いやわかる。純粋な愛が形を変えて慈しむ気持ちと愛しさに融合していくのは。わかる。むしろ好き。

でもそこ描かれてないもん。
乗り越えてないないもん。

もしかして「愛してる」と言った時にやっと自分の本心に気付いたけど、己が彼女に対してやった事が許せなかったから逃げるしか無かったって解釈すればいい?可哀想な子供だった大切な被保護者に邪な想いを抱いた自分が許せなかった?
しかしそう解釈すると肝心の再会シーンが全てを台無しにしてしまう結果に……そういうしがらみを捨ててでも追いかけずには居られない愛だったのかもしれないけど。そうなると今度は少佐の苦悩がスポンジケーキのようにふわふわとしたものになる……シフォンケーキは美味しいよね。ホイップクリームは甘さ控えめでお願いしたい。

昔映画のレオンをロリコンの暗殺者と少女の恋と称した人がいたけどたぶんこういう解釈違いなんだろうと思う。私は愛を細分化するけどその人にとっての愛は恋愛しか無かったんだろう。きっと一生分かり合えないからお互い近寄らないのが一番だ。これがいわゆるSOCIALDISTANCE。でも違う意見を聞くのは興味深いから耳だけは向けておくね。

恋愛に至るきっかけはあえて描かなかったのか。
明言してないということは恋愛に変遷していたわけではなく変わらぬ慈しむ愛であったのか。

どちらにせよそこ見たかった。格好悪い少佐いいじゃん。今度はヴァイオレットが支えてくれるよ。立ち直れてなくたってきっと救いを得られるよ二人で居たら。居なかったけど。新しい絆育んでないけど。
ヴァイオレットが健気な分温度差が酷い。

そうして色々あったけど、二人は幸せに暮らしましたとさ。うんうんそのラストも別に問題ない。後の紆余曲折は観た人が各々に想像すればいいもの。
でも違うの。
どんな苦難があっても再び二人で生きていこうと決意した、手を伸ばさずにはいられなかったそのどうしようもない愛を私は見たかったんだ。


つまり愛に対する解釈違いがこの映画を楽しめなかった最大の原因なんで観るだけの人間なんて勝手なものだと製作者は腹を立てていい。

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