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友達が命を落とした踏切で、2回目の別れをする

23年前の今日、友人は急に僕らの前からいなくなってしまった。

文化祭で上映する学生映画の撮影の途中、音源をレンタルCD屋さんに借りに行く、と言ったまま。

いつまで経っても帰ってこないと思ったら、救急車やパトカーやらが小田急線の踏切に集結して、電車は駅でもないのにそこに寝そべり続けていた。

後から警察から聞いたのは、踏切に酔っ払いの老人が寝ていたらしいこと。
電車が近づく中で、友人が偶然通りがかって、踏切をくぐって助けようとしたこと。

間に合わず、二人ともそこで命を落としたこと。

友人の、今泉友佑の棺桶を霊柩車に運んだ時の、あの軽さを今でも覚えている。

何も入っていなかったのだろう。

☆★

それから毎年毎年、映画サークルの友人たちと踏切に集まって墓参りのようなことをしている。

いつものように、23回目の今日も。

でも今回、いつもと違った。正確に言うと、いつもと違うことを思った。
最近物覚えが悪くなったから、書いておこうと思う。

あまり周囲に言ってないのだが、最近あるきっかけで、カウンセリングを受けている。

40を超えて、これまでと種別の違う悩みを抱えるようになってきたからだ。
そのせいか、元々内向的な性格なのだけど、さらに自分を深く見つめるようになった。

友人の死は、自分に対しどういう影響を与えたのか。

若い頃は、それは喪失からくる大きな悲しみであり、人のために命を捨てることができることへの驚きであり、同時に、同じ人間がそこまでできるのか、という畏敬の念だと思っていた。

それも確かにあった。しかし、今思うと、それらの気持ちに加えて、もっと薄暗い影のような感情を抱いていただろうことを、23年経って気づいてしまった。

それは「罪悪感」だ。

「なぜ、自分が音源を借りに行かなかったのか」
「なぜ、友人が亡くなったのに、自分は普通に生き、のうのうと生活しているのか」
「なぜ、高潔な友人は死んだのに、自分のような俗物が生き残ってしまっているのか」

疑問系の形を取るが、実際のそれは、自分への非難だ。

「死ぬべきは彼ではなく、自分だったのでは」

そう考えるのは怖かった。自分が暗い沼に引きずり込まれ、戻ってこれないような気がした。

罪悪感を払拭するために、自分もまた自らを犠牲にして、人に尽くしたいと思った。
「就職活動せずにいきなりNPO起業」という当時極端に珍しかった選択も、向かってくる電車の前に立つことに比べたら、大したリスクではなかった。

20代の頃は、これまでに無かった訪問型病児保育、という事業を立ち上げるために、一日中働いた。自分の健康も投げ打って、毎日のようにストレスで吐きながら、働いた。それでもそこまで不幸ではなかったように思う。自分の身を投げ打てる大義があったから。明らかに人を助けられる機会があったから。自分の幸せなんて考えたこともなかった。それでも充実していた。

それから何年か経って。事業は立ち上がって広がり、団体も大きくなって、たくさんの仲間ができた。自分だけが苦しんでいた時から、仲間たちが主体的に考え、動き、事業を回してくれるようになった。

自分の全てを投げ打つ必要もなくなり、仲間たちと共に仕事をするのは楽しく、こんなに良い仲間たちと意義のある仕事ができる自分は幸せだな、と感じた。

でも、そんな自分に対し、もう一人の自分はこう言う。

「仕事は辛くあるべきだし、苦しいもの。そうでなければ全力を尽くしていないのだし、全力を出していないということは、どこかで手を抜いている、ということ」

「全力を出さないで、どうやって人々を本当に助けられるというのだろう。そんなにぬるい仕事ぶりで、命を懸けた彼に申し訳ないと思わないのか」

その度にハッと我にかえり、もっともっと頑張らないと、と自分の背中を押した。
このままじゃダメだって。

☆★☆★☆★

しかし40代となった今、ふと思ったのだった。

これまで20年近く、彼に恥じないよう、自分なりに努力してきた。
多くの人々の役にもそれなりに立ってきた。

もう自分を許しても良いかもしれない。罪悪感を手放しても良いのかもしれない、と。

でも、これまで自分を支えてきたこの罪悪感を手放してしまったら、自分の背中を誰が押してくれるのだろうか。もう辛い、とうずくまる自分を無理やり立たせてくれていたのは、他ならぬ罪悪感と、自分が死ねば良かったのかもという後悔と、せめてちゃんと生きて成果を出さなきゃという責任感だった。

ああ、そうか。

友人は、そうした感情に形を変えて、実は僕の側にいてくれていたのか。

辛い時も悲しい時も傍にいて、支えてくれていたのは、本当は君だったんだね。

罪悪感を手放せなかったのは、手放してしまったら、君と本当にお別れしてしまうことになってしまうから。

そう気づいた時に、涙が止まらなくなった。

なんだ、そうなんだったら、もっと早く言ってくれよ。
長い間、ありがとう。

☆★☆★☆★

これまでの20年のような気持ちであと20年働き続けることができないことを、40代になった最近、渋々認めざるを得なくなった。

このままだと、もう頑張れないところまで自分を追い込んで、心の最後の井戸を掘り尽くしてしまう。

それは僕と一緒に働いてくれている、何百人もの大切な仲間たちを悲しませてしまうことになるだろう。

だから固く握りしめた罪悪感を手放していくタイミングが来たのだと思う。

その固く握っていたものを手放して空いた手で、新しい何かを握ることができるだろうか。

願わくばそれが、刻みつけられた過去ではなく、未来への願いのようなものだったら良いな。

2回目の別れの時間が来た。

君はそんな僕を、許してくれるだろうか。


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