大名跡襲名した八代目中村芝翫 成駒屋の芸、未来に繋ぐ

このマガジンでは、小松成美が様々な人に取材した、北國新聞の連載「情熱取材ノート」の過去のアーカイブを掲載いたします。

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 江戸時代、歌舞伎役者も商家と同じく屋号を持った。その名門「成駒屋」。この屋号の謂(い)われをご存じだろうか。

 江戸で人気を二分したのが四代目中村歌右衛門と四代目市川團十郎。ある時、團十郎は、公私にわたっての親友である歌右衛門へ、将棋の「成駒柄」の着物を贈った。

「成駒柄」とはひらがなの「と」で、歩が成って「金」と同じ力を持った「と金」である。團十郎は、親友歌右衛門の素晴らしい芸の真価を将棋の駒になぞらえた。親友の贈り物に感激した歌右衛門は、團十郎の屋号「成田屋」へも敬意を表し、当時の屋号「加賀屋」から「成駒屋」へと変えてしまうのだった。

 2016年10月、成駒屋に新たな立役の星が登場した。三代目中村橋之助改め八代目中村芝翫。2011年に逝去した父から名を受け継ぐことになった芝翫は、成駒屋への思いをこう語る。

 「僕の大叔父である六代目歌右衛門は女形の最高峰。父の七代目芝翫も女形の名優と呼ばれた役者です。二人が守った成駒屋。その芸を今ここで途絶えさせてはならないという決意です」

橋之助に愛着

 歌舞伎の芸の継承は血脈とともにそれぞれの家に残される。名跡を継ぐ者は、その栄誉を受けるだけでなく、家の芸の継承という重責を担う。

 「10月、11月と歌舞伎座で襲名披露興行を行わせていただいております。『襲名、おめでとうございます』と言われる度に身震いしてしまう。成駒屋、そして江戸から続く芝翫の名前を汚してはならない、お客様に喜んでいただく芝居を見せなければと、緊張と重圧を感じるからです」

 36年間も橋之助と名乗った彼は、大名跡を継ぐことなど願ったことがなかった。

 「橋之助という名前には愛着がありましたし、この名前のまま自由に舞台に立てたらと、考えていたんです」

 しかし、亡くなる直前の父は末の息子に「芝翫襲名」を託す。

 「父は私を呼んで『兄と仲良く、成駒屋を守ってほしい』と言いました。そして『私が歌右衛門を襲名せずに芝翫を名乗り続けたのは、少しでも大きくしてお前に渡すためだよ』と言ったんです。父の愛情と役者としての意思を感じ、胸がいっぱいでした」

 その後、成駒屋に試練が訪れる。父が亡くなって2年後、七代目歌右衛門襲名が決まっていた兄の福助が病に倒れ、長期休養を余儀なくされてしまうのだ。

 「暢気(のんき)だった次男のままではいられない。芝翫襲名に足る役者になりたい、そうならなければと、稽古し舞台に立つようになりました」

 継承する芝翫の名とその系譜も学んだ。

 「芝翫は長らく女形の名でしたが、四代目は『大芝翫』の異名を取った立役です。それは豪放磊落(らいらく)で天真爛漫(らんまん)で四代目にしかない演出もある。当時の当たり役・演出を、自分の手で蘇(よみがえ)らせてみたい。そう願うようにもなりました」

蘇る父の言葉

 幼い頃からともに舞台に立ち、憧れた中村勘三郎や坂東三津五郎。八代目芝翫との共演は叶(かな)わなかった。

 「けれど、僕の体の中には先輩たちの歌舞伎愛が込められている。数え切れないほど一緒に芝居をした勘三郎のお兄さんには『やり残した事はお前に頼んだぞ』と言われているような気がしています」

 芝翫と同時に、長男の国生が四代目橋之助、二男の宗生が三代目福之助、三男の宜生が四代目歌之助を襲名した。息子たちと舞台に立つ度に父の言葉が蘇る。

 「謙虚であること、信念を忘れぬこと、常に感謝すること、人の三倍努力すること。僕は父のようには出来ませんが、何度もこの言葉を唱え、3人の息子たちと一緒に成駒屋の芝居を未来へ繋(つな)いでいきたいと思っています」

(※このテキストは、北國新聞の「情熱取材ノート」において過去に連載したものです※本コンテンツの無断転載を禁じます。著作権は小松成美に帰属します)

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