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ふざけていたけど実は本当に修論を捧げたい人がいる話


「修論の謝辞で夫への感謝を綴るには今年中に結婚しなきゃ!」
なんて台詞で、これまで何回ふざけたか分からない。大学院の同期が学生結婚をしたこともあり、独身組の中で幾度となく繰り返されたジョーク。誰かがこの話題を出す度に、けらけら笑う輪の中で私は一人の友人のこと、そして大学院への進学を決めた季節を思い出す。
彼が病でこの世を去った4回生の春。あれからもう3年が経とうとしている。

2019年の4月28日。国家公務員の一次試験を終え、スマホの電源を入れた。LINEのメッセージが表示される。友人からの応援と、数件の連絡事項。それらが並ぶ履歴の1番上に、小中の同級生を集めたトークルームが突如出来ていた。同窓会の案内かな、ぼちぼち内定報告見るようになったもんなあ。私も参加できる日程だと良いんだけど。そう思いながらトークを開く。その瞬間に、試験の出来を話していた友人の声が急に遠くなった気がした。「訃報。それに伴う通夜と葬儀日程。参加する場合は連絡してください。」
そこからどうやって友達と言葉を交わして家に着いたのかは覚えていない。お疲れとかなんとか言ってご飯は良い感じに断って帰ってきた気がする。たぶん。

小中学校の同級生と書いた。これが結構、私にとって大切な人間関係なのだ。私が育ったのは海外の小さな日本人学校で、同じ学年に20人いれば良い方、みたいな環境だった。10人ちょっとの学年で、3年を共に過ごした仲間。生徒会の役員も一緒に務めたりして、割と関係が深かった方じゃないかと思っている。同じタイミングで日本に帰り、その後も数回会う機会があって、大学の同じ学部で再会した。同じ場所に4年以上住んだことがなく希薄な人間関係しか持たない自分にとって、この再会はとても尊いものに感じられた。大教室の講義で顔を合わせるたび、なんだかとても嬉しくて。言葉を交わすたびに、人の縁って繋がるんだなあ、なんて幸せな気持ちになれた。

これからも、一年ごとくらいで皆で集まって、なんだかんだ楽しくやっていくものだと思っていた。入退院を繰り返してはいたけれど、彼は同級生に合うといつも「大丈夫!」と言っていたし、実際そうした投稿がインスタに上がるたびに誰もが安心しきっていた。
いつから大丈夫じゃなかったのか、本当のところは誰にもわからない。でも、思い返すとあちこちに「大丈夫じゃなかったかもしれない」欠片が散らばっていて、どうしようもない気持ちになる。久しぶりに再会した時に、私は嘗て無愛想で女子とはあまり話さないタイプだった彼がだいぶ社交的になっていたこと、昔よりもたくさんの会話をするようになったことを「大人になったんだな〜」くらいに受け止めていた。でも多分、歳を重ねたことだけが理由ではなかったのだ。それが恐らくきっと、毎日を後悔のないように丁寧に生きたいという彼の願いの証だったのだと気づいたのは、全部が終わった後だった。

身近に助かった例があったことも、私の感情をめちゃくちゃにした。この出来事の2年前に母親に癌が見つかり、手術をしていた。早期の発見が幸いして、5年後生存率を聞いても「まあ、悲観するほどではないんじゃないか」くらいに回復できたのだ。だから、何となく同じ様に捉えてしまっていた。まだ若いし、体力もあるし、助かるんじゃないか。彼も、病が発覚してから何年もしっかり命を刻んでいた。これからも治療を重ねながら、きっと生きていける。どこかそうやって楽観視していた。
でも現実は違った。現代医療の力を持ってしても、人は案外、呆気なく永遠に会えなくなる。人生は、望んでいないところで簡単に終わってしまうのだ。

あれよあれよという間に告別式が終わって、彼の無念に思いを馳せる。そのときに突然、自分の中でぽつりと疑問が生まれた。「私は今、就活っていう人生を決めるタイミングで、やりたい事をちゃんとやろうとしてるのだろうか?」
私は海外での生活がきっかけで国際協力にずっと関心を持っていて、本当はそれを仕事にしたいと思っていた(青年海外協力隊とか、そういう類のものというと伝わりやすいと思う)。ただ、この業界は修士の学位が求められる場合が多いこと、その割に正社員の雇用が僅かであること、言わずもがな途上国は危険な地もある事、様々なことを理由に無難に進路を決めかけていた。
公務員って魅力的だし、親も安心するし。さっさと卒業して、地元で公務員やって結婚して。親も祖父母も、みんなハッピー。きっと喜んでくれる。実際これを話したら親は嬉しそうにしていて、間違ってなかったんだなと安堵する自分がいた。一人娘を箱に入れて(!)大事に育ててくれた親の心配する顔、悲しむ顔を見たくなかった。安堵したと言ったが、半ば本気でそう思おうとしていた、というのが正しいだろう。でも、本当にそれでいいの?たった今、目の前で同い年の友達の命を大きな無念とともに見送ったばかりなのに?

公務員試験も佳境に差し掛かる中、生まれて初めて親が望んでないであろう選択をした。大学院に行きたい。当然親は驚いていたし、本気なのかと何度も聞かれた。勉強をほっぽり出してかるたばっかりやってた娘が進学したいなんて言い出したのだから、そりゃそうって感じの反応だった。それでもなんとか話をまとめて、夏の終わりに進学が決まった。

これは余談だけれど、大袈裟に聞こえるかもしれないが親の反応は本当の話。「それが進学を目指す人の学業への取り組み方か?」くらいのことは普通に言われた。
大学受験の後に浪人したいと言った私に「現役で勉強に真摯に取り組まずにかるただけしてたのに、落ちたから浪人したいは都合が良すぎる。人生何もかも自分の思い通りになるとは思うな」と問答無用で下宿を契約した親だ。かるたは真剣にやって一応全国で準優勝したんだけどな。そこらへんの実績、汲み取ってもらえてます??
大学でもかるたばかりしていたからもちろん進学に関するコメントも、言わずもがなである。ただ高校はともかく、大学に関しては院試の筆記が免除になるだけの成績だったのだから親に言いたいことがないわけでもない。
恨みつらみを書いたが、今までやりたいことは全て叶えてくれた親に唯一許してもらえなかった事柄だ。「ここでやりたいようにさせたら勘違い人間が出来上がる」という当時の親の判断は正しく、あまりにも勉強していなかった高校時代の怠惰な自分を重く受け止めている次第である。当時は納得していなかったが、「自分の行動に責任を持つ」というめちゃくちゃ大事なことを教えてくれたなと今では思っている。

そうして進学した大学院で、(コロナの影響で留学には行けなかったけれどまあその後悔は置いとくとして!)、私はいま、修了に向けて先生方にボコボコにされながらパソコンと向き合っている。そして、病みが深まりそうになった時に、ふっと彼のことを思い出すのだ。

生徒会で一緒に企画した、現地の子供達への文房具支援。あれがきっかけで開発援助に興味を持って、私はいませっせと論文を書いているよ。3回生の時、将来やりたいことについて恥ずかしがらずに素直に伝えてみたらよかったな。どんな反応を見せてくれただろう?あの支援は確かに現地の豊かさに貢献はしなかったけど、そんなに引きずること?って、他の友達みたいに呆れながら笑うんだろうな。それとも、なんだかんだあなたも法学部に来 てたってことはもしかして関心あったりしたのかな?

人の死をネタに文を綴っている様に見えるだろう。会えなくなってから今更後悔して、呑気に自分の人生のあり方を考え直してるんじゃないよ。その通りだ。友人の死がないと命の儚さにも気づけない。1番やりたいことのために、親の期待と違う方向に一歩踏み出すことすら出来ない、愚かで弱っちい人間。そんな自分が心底嫌いで、情けなく思う瞬間なんて今でも沢山ある。でも、そういう自己嫌悪も全部ひっくるめて、頑張っていくしかないんだろうなとも思っている。頑張ったという肯定感で、ぬぐい切れない自己嫌悪を薄めようとしているだけかもしれないけれど。

自分の論文なんて、人様にわざわざ読んで欲しいものではない。もちろん、あえてコメントを残すつもりもない。だけど、いつかもう一度会えたら感想を聞いてみたいなと考えたりする。「一緒に企画した文房具の寄付が、実際にはスラム街の人のためになっていない気がした」っていうだけの出発点を、全然違う格好つけた言葉で「背景と問題の所在」とか言って論じちゃってるの、やっぱりウケるもんな。でも笑われてもいいから、読んでほしい。いっぱい指摘を受けて、凹んで病みながら書く4万字を、いつか君に。

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