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#02 失言の味

この間、失言をして落ち込んで帰宅した。

帰宅したら、夕飯どき。

作る気分ではなかったので
ありあわせのもので食べよう…
と思って冷蔵庫をのぞいたら、
その日の午前中に茹でたジャガイモが
あったので、それをそのまま食べた。

美味しくなかった。

失言を繰り出したそんな日には、
ついつい、
あらゆることが上手くいかないのを
全部、自分ができないせい
ということにしてしまう。


ジャガイモすら美味しく茹でられない自分…

いや、まてよ。
冷静に考え……なくても、
ジャガイモが美味しくなかったのは
調理法が悪かったからとは限らない。

とすれば、
じゃがいもが悪かったのか
自分の味覚が悪かったのか。


一応、美味しい野菜の見分け方は
それなりにわかっているつもり。

料理上手な母とのスーパーでの買い物や、
4年半の一人暮らしで何度も何度も、
野菜をよく見て、手に取って、調理して、食べた。

はずれることもあるので
なんとも言えないが、
野菜は可能な限り丁寧に選ぶ派。

今回のジャガイモも
ちゃんと美味しそうなものを
選んだと思う。

あれ……
調理して食べる野菜の
「元」のおいしさなんて
どうやって判断するのだろう。

同じ袋に入っていたジャガイモ。
見た目は似たような、そして同じ「ジャガイモ」。

でも、個別に味が若干違うことがある。
同じ種芋から同じ畑で育っても
個々に形も大きさも違う。
何から何までまったく同じジャガイモなんて
ありやしない(と勝手に思っている)。

個々に違いがあるのなら、
調理法を変えて比べたとして、
美味しくないのはジャガイモ本体なのか
悪い調理法により美味しさを壊してしまったのか
知る由もない。

サンプル調査みたいに、
複数と複数に分けて何度か
違う茹で方で調べたら分かるだろうか。

いっそ、
幾つかの、それぞれ形あるじゃがいもも、
マッシュしてしまえばひとつになるから
こんなこと気にならなくなる。

1+1は2にならない。
幾つジャガイモを混ぜても
最終的にひとつの味になる。

たくさんの1を集めて混ぜたものが
そのジャガイモの味になるのだろうか。

たとえばジャガイモそのものの味が
ひとつになったとして、
こんどは同じものを食べても
美味い!という人と
不味い!という人がいる場合もある。

つまり、このジャガイモの味が
美味しかったり不味かったりするのは、
誰が食べるかにもよる。

食べる人がどんな環境で育ち、
どんなものを好み、
今、どのような状態か。

今食べているものが美味しいということ、
それは、
人生の痕跡であり今の自分でもある。

のだと思う。キザな言い方をすれば。

人類が欲する≒美味しいと感じる成分は
脂と糖と水分という傾向があるにしても、
どんなバランスが美味しいと感じるかは
結局のところ、
その人が何を食べてきたか
とか
今どんな成分を欲しているのか
に通ずる気がする。

調理法。素材そのものの味。食べる人による。
「味」がその味である理由として、
どれも、もっともらしい。
というか、
すべて、複雑に絡み合っていると思う。

でも、
全ての要因が均等に作用することはない。
どれかがもっとも大きい要因となるはず。

さて、「味」の責任は
一体、どこにあるのだろう。
食材に帰属するのか
調理法に帰属するのか
食べる人に帰属するのか
はたまたその全てなのか
別のところにあるのか。

私の味覚が感知した
あのジャガイモの美味しくなさは、
何がもっとも大きな要因に
なっていたのだろう。

確かめようがないから、
ジャガイモ自体が美味しくなかったことにすることもできる。
自分の技術が足りなかったことにもできる。

だけれど、
確かめようがないからこそ、
自分の人生の痕跡として
勝手に、盛大に、読み換えることもできる。

味は、
素材そのものと、
素材を食べる人がいて成り立つもの。

そう考えたら、
素材が美味しいのではなく、
素材を美味しいとか不味いとか
そう感じられる「私」がいて
はじめて、この味は成り立つ。

私が食べたあのジャガイモが美味しくなかったのは
やっぱり、
あの日の私が食べたから、なのだと思う。

失言の苦味が、口の中に残っていたのだろうか。

うまく調理「できない」自分の「せい」
だったということではなく、
いや、そう思うことそれ自体も含めて、
ジャガイモが不味かったのは
あの時の私が、あの時の私であった
紛れもない痕跡だということ。

あの日失言をして落ち込んで帰ってきて
料理をする気力がなく、
その日の朝に茹でた、
その前々日に買ったジャガイモを
夕飯に食べたあの時の私にしか
出会えなかったかもしれない偶然。
(という必然?)

すごく当たり前のようだけど、
一体誰が、こんなキリのないことを、
一見当たり前でただの偶然に思えることに
意味を見出したりチマチマと考えるだろう?

なぜこの味なのか、
気にも留めないこともあるし、
気に留めたとしても
素材自体が不味かったことにして
忘れ去ることもできる。
何より、こんなことにばかりに気を取られていたら、
一生では時間が足りない。

それでもやっぱり私は、
いちいち道の小石に躓き
ジャガイモの味にも躓くことで
ようやく自分が生きていることを、
実感しているのかもしれない
と思ったのでした。


※根拠のある理屈や正論ではなく
ただただ想像と妄想とこじつけ全開で(笑)
自分が理解できる程度には整理しながら
思うままに書いています。
エッセイとも言えるかどうか。。

自分以外の方が読んだら
私だけ分かっているであろう前提が
混ざり込んでいたり
意味がわからないところが
ある可能性がありますが、
その点ご承知おきを。。。

(論文では根拠!数字!客観性!を求められる反動でしょうか…
自由に書くのも良いですねぇ)

追記。
厳密に言えば、種芋からとれるジャガイモは
「クローン」みたいですね。



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