明けない夜だってあるから
食べる夜のためでした。彼女はキッチンバサミを持っていないほうの手で、エレベーターの十四階のボタンを押します。彼女が住む医師住宅の最上階でした。扉が開くと、七月下旬のなまぬるい夜風が肌にまとわりつきます。彼女は屋上へ続く非常階段の錠を開けました。屋上には低い柵しかなく、彼女は夜空に包まれます。細く鋭い月がハサミを青く照らしました。彼女は思います。明けない夜だってある。
明けない夜はないとか、止まない雨はないだとか、いつか終わるものを例え話に使うのは、ずるい。思いながら彼女は開いたハサミの隙間から月を見上げます。癒えない傷はないとか、治らない病はないだとか、私は患者にそれほど無責任なことを言えない、と。「どうして娘を助けてくれなかったの?」と患者の母親が呟いた五年前の言葉を彼女が忘れられる夜はもう来ません。彼女は屋上の端に立ちます。
吹きつけるビル風が整った前髪を乱しました。彼女は背伸びをします。右手を伸ばしました。握っていたキッチンバサミで、彼女は夜空に切り込みを入れます。長方形に薄く夜を切り取って、ポケットへしまいました。彼女は踵を返します。お腹が減ってきました。屋上をあとにして、非常階段の鍵をかけます。エレベーターに乗り、二階のボタンを押しました。二〇一号室が彼女の自宅です。家に帰ります。
キッチンの明かりを点けました。彼女は炊飯器を開けます。少しかために炊いたお米を、敷いたラップに載せました。深夜一時を刻む秒針の音にあわせるように、彼女はやさしくお米を握ります。角のやわらかい三角形のおにぎりができました。具のないおにぎりに、彼女はポケットからとりだした夜を巻きます。できあがりました。塩さえかけなかったのは、食べる夜が、なぜだかちょっとしょっぱいから。
「いただきます」と彼女は皿に載せたおにぎりをほおばります。あの子のお母さんも、娘のためにおにぎりをつくったことがあるかもしれない。暗い部屋で彼女は考えます。具は梅か、鮭か、ツナマヨか分からないけれど、きっとそのおにぎりには、心がこもっていたのだろう。もう娘におにぎりをつくることができない、あのお母さんこそ、明けない夜に包まれているにちがいないと彼女は下唇を噛みます。
左目から流れる大粒の涙を拭きもせず、彼女はおにぎりを食べます。乾いた音を立てる夜は、やはりしょっぱく感じられました。お腹の底が温かくなってきます。彼女は想いました。いまの医学では治らない病気はある。癒えない傷もある。止まない雨もあり、やはり明けない夜もある。それでも私はおにぎりを握ろう。悔やんで、泣いて、生きていこう。そうして彼女は夜を食べます。最後のひとくちまで。
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