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甘いだけの人生なんてさ

 海砂糖をあたしが買ったのは六月の渋谷の仄暗い地下通路です。売人は周囲を見回したあと、フードデリバリー用の四角い箱から白い粉の入った小袋をあたしに手渡しました。二万円を支払います。苦しい毎日から逃れるためでした。

 夜二時、家に帰ると「幸せになれるぜ」という売人の言葉があたしの頭のなかに響きます。「不幸せに見えましたか? 正解!」と毒づきながら、海砂糖を水に溶かします。夏に似合わない雪のようでした。海砂糖を一気に飲みます。

 最悪でした。売人を殴りに行こうかと思ったほどです。甘いだけの水でした。本当にただの砂糖なのでしょう。でも甘ったるい味わいが妙に懐かしい。あたしが思い出したのは、いつの日かばあちゃんが作ってくれた梅ジュースです。

 幼い頃、好きな男の子に振られた日、夕暮れの縁側で泣いていたあたしにばあちゃんが渡してくれた梅ジュース。甘くて酸っぱいあの味を思い出しながら、もういちど口をつけた海砂糖の味は、なるほど甘くて、なぜか、しょっぱい。






ショートショート No.406

photo by Kosuke Komaki

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