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アジア紀行~インドネシア・タナトラジャ~サバイバル家族旅行note⑯最終回~

Ujung Pandangウジュンパンダンの朝

タナトラジャを目指してはるばるやって来た今回の旅も、今日で11日目になった。スラウェシ島のスタート地点は、州都Ujung Pandangウジュンパンダン、そしてゴールもこの町だ。この日の夕方の便で、いよいよスラウェシ島を離れる。

この旅のクライマックスは、やはりトラジャだった。死者を葬る儀式や風習は、想像を絶するものだったが、二度と目にすることはないと思われる貴重な体験だ。
家族を襲った高熱や下痢の症状も、いまは忘れたように回復し、過去の笑い話になってしまった。この後はバリ島で2泊したあと、帰国する予定だ。

インドネシアは8割がイスラム教徒の国だ。まだ夜が明けない4時半ごろから、礼拝を呼びかけるモスクのアザーンが始まる。鶏が鳴き、どこかでトッケイが鳴く声も聞こえてくる。
8時前に朝食。トーストにコーヒー、スクランブルエッグとフルーツ。

食後にパオテレ港に行く。この町は、かつては香辛料貿易の中継港として発展し、現在も東インドネシア地域の中心的な都市でもある。港には大小たくさんの船が停泊している。


町を散策

ガイドのGENTOグントについて、町を歩く。この地の人々が暮らしているスラムのようなところにも案内してくれる。農村に比べて貧しい感じがする。空気も人も魚の臭いが染みついている。水路からも異様な臭いがする。下水施設などないのだろうか。すべて海に流れ込んでいくのかもしれない。
以前、ジャカルタのコタ地区に行ったとき、同じようなスラムに迷い込んでしまったことがある。板を渡しただけの通路をひたすら歩いたことを思い出した。

次に見学したのは、ロッテルダム要塞だ。入場料は1人Rp.400。安い。

ここは、1545年にゴア王国によって建造された要塞都市で、「ベンテン・ウジュンパンダン」と呼ばれていた。しかし17世紀になって、オランダが香辛料貿易で覇権を握るために、この地を植民地にする。彼らはゴワ王国の要塞を破壊し、その場所に新たに要塞を再建してロッテルダム要塞と名付けた。

ロッテルダム要塞の中は何棟もの建物が保存されていて、全体が博物館になっている。珍しく日本人の旅行者と出会う。東京からやって来た2人の女性で、教員だという。急ぎ足で見学して外に出る。
今回の旅の前半の体験が強烈だったせいか、ウジュンパンダンの町の印象はなぜか薄い。

土産物屋をのぞき、そのあと港の近くのレストランに入る。もう昼時だが、疲れがたまってきたせいか、空腹を感じない。ほかのみんなも同じだ。それでも暑いのでのどは乾く。GENTOグント以外は、飲み物だけを注文する。

Wisma・Garuda に戻ると、GENTOグントの子どもたちが待っていて、我が家の子どもたちにブレスレットとネックレスをプレゼントしてくれる。うれしいサプライズだ。
GENTOグントたちと過ごすのもあと数時間。部屋で荷物の整理をする。トラジャで買ったものがけっこう嵩張る。トンコナンハウスのミニチュアは箱がないので、壊れないようにバリ島のバティックで包む。
GENTOグントの奥さんが、お茶とタピオカの揚げ物を出してくださる。みんなで写真を撮って、いよいよお別れだ。

GENTOグントに空港まで送ってもらう。国内線のゲート前で、みんな彼と握手する。一度では物足りなくて、もう一度握手する。互いに言葉が通じないので、複雑な会話はできなかったし、もともと寡黙な人柄でもあったが、この10日間ほどともに行動し、ほんとうによく面倒を見てくれた。感謝の気持ちをもっと伝えたかったが、もうお別れだ。そしてこのスラウェシ島とも。

今回私たちが旅したのは、スラウェシ島の足の部分、南スラウェシだった。ウジュンパンダンは、今ではマカッサルと名前を変えている。小さかった空港もハサヌディン国際空港という立派な空港に変身している。

午後6時30分に飛び立ったガルーダは、1時間あまりでバリ島のデンパサールの空港に着陸した。タクシーで、インドネシアに入国したときに泊まったクタ・コテージに行ってもらう。予約はしていなかったが、幸い空き部屋があって、ゆったりとしたスペースで眠ることができそうだ。バスタブがあり、シャワーから熱い湯が出ることに感激する。同じインドネシアでも、ここは別世界なのだと思う。


こうして私たちの「インドネシア・タナトラジャ~サバイバル家族旅行」は、帰国まであと数日を残すのみで、とりあえず無事に終わりました。
あれからバリ島へは何度も行きましたが、「二度とできない体験だろう」と思ったとおり、タナトラジャへ行くことはありませんでした。子どもたちが大きくなるにつれて、家族みんなで海外に行くこともなくなりました。

今回の紀行文(全16回)は、書き始めから今回まで半年もかかりました。残してあった当時の記録や資料が不十分だったこと、記憶も曖昧になっていたことなど、原因はいくつもあります。記憶を呼び起こしてくれる写真も、アルバム3冊に収められているのですが、スマホもデジカメもなく重い一眼レフのフィルムカメラでの記録でしたから、このnoteに写真を掲載するのに苦労しました。今回まで書き上げて、正直ホッとしています。しかし、若かったからこそできた旅だったのだと、しみじみ懐かしい気持ちになりました。

お読みくださったみなさん、ありがとうございました。


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