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大阪市の神社と狛犬 ❼都島区⑤旧藤田邸~財閥の庭園の中国獅子~

大阪市都島区の地図と神社

大阪市には、現在24の行政区があります。淀川のすぐ南側には5つの区がありますが、都島区は大川(旧淀川)を挟んで北区の東側に位置します。南北に細長い区で、南は寝屋川と接しています。
都島という名称は、仁徳天皇の高津宮や孝徳天皇の長柄豊碕宮が近くにあったことによると言われますが、一説には、長柄豊碕宮の東岸(向かい側)に位置していたことから、この付近を宮向島みやこうじまと称したことに由来するともいいます。

都島区には、桜宮御旅所を含めて神社が4社あります。旧太閤園庭園内の網島稲荷神社を含めると5社になります。
桜宮(櫻宮・桜宮神社)から河川敷の公園を大川沿いに南に下ると、大きな銀色の橋が見えます。桜宮橋、通称「銀橋」です。銀橋の西側に見えるのは、春の「桜の通り抜け」で有名な造幣局です。銀橋の下を潜ると、すぐ左手に「藤田邸跡公園」があります。公園に隣接する建物は、今年4月にリニューアルされた藤田美術館です。美術館と道を挟んで、旧太閤園があります。

旧藤田邸

ここで言う「旧藤田邸」とは、大阪市都島区網島町にある、藤田邸跡公園・旧太閤園・藤田美術館などを総称したものです。
この付近一帯は、明治時代に藤田財閥を創始した実業家、藤田傳三郎が所有した土地で、「網島御殿」・「あかがね御殿」などと称された広大な藤田邸がありました。しかし、1945年の大阪大空襲により、表門・東邸・鉄筋コンクリート造りの蔵・多宝塔などいくつかの建物を残して、他はほとんどが焼失してしまいました。

旧藤田邸・多宝塔

旧太閤園の中国獅子

焼け残った東邸は「淀川邸」と名称を改めて、藤田観光が営業する宴会場や結婚式場になります。これが「太閤園」です。しかしコロナ禍により営業が悪化し、太閤園は昨年、創価学会に売却されてしまいました。

旧太閤園庭園入口の仁王像

太閤園には「心」の字に配された池を中心とした美しい築山式回遊庭園がありました。庭園内にはかつて東大寺のものであったという大きな礎石のほか、石仏や石塔が多数見られ、無料で開放されていました。
また園内には「網島稲荷神社」が祀られていました。この辺りの地名は、近松門左衛門の浄瑠璃「心中天網島」で有名な「網島」です。網島稲荷の由来は残念ながらわかりません。

旧太閤園庭園内・網島稲荷神社

この網島稲荷神社の前に一対の石獣が置かれています。狛犬ではなく、中国獅子のようです。

網島稲荷神社前の獅子(玉取り)
網島稲荷神社前の獅子(子取り)

一方の獅子は「玉取り」、もう一方は「子取り」です。体を対面し、顔と上半身だけ正面参拝者側にひねっています。これも、他の石造物と同じように、藤田傳三郎が収集したものでしょうか。

現在、この旧太閤園は閉鎖されていて、残念ながら入ることができません。所有者の創価学会は、2030年の学会創立100周年記念事業として、この場所に「関西池田記念大講堂」を建設する予定だそうです。文化財級の邸宅や庭園はどうなるのでしょうかね。

藤田邸跡公園の中国獅子

旧太閤園となった東邸の向かい側に、藤田邸の本邸がありました。この本邸に造られた庭園が、現在の藤田邸跡公園です。

藤田邸跡公園入口

この庭園のある土地は長らく放置された状態にあったそうですが、大阪市の所有となって整備され、2003年には「旧藤田邸庭園」として大阪市の名勝に指定されました。
起伏のある園内には、築山や池があり、四季折々の花々来園者を楽しませてくれます。隣接する藤田美術館に近いところに、ひっそりと一対の中国獅子がありました。石燈籠の一部などといっしょに、捨てられたように庭の隅っこに放置されています。どこか落ち着き場所ができればいいのですが。

藤田邸跡公園にあった中国獅子

藤田美術館

藤田傳三郎とその息子たちが三代にわたって収集した美術工芸品は二千点にも及びますが、どれも一流の品々ばかりです。特に注目されるのが、世界に3碗しかないと言われる国宝の「曜変天目茶碗」。暗闇では真っ黒にしか見えない碗の表面に光をあてると、瑠璃色の斑文が現れ美しく輝きます。鎌倉時代に描かれた「玄奘三蔵絵」(国宝)や仏教関係の作品にも、貴重なものが多数あります。
1945年の大阪大空襲で焼け残った蔵は、戦後になって藤田美術館として改装され、春秋の2回、特別展が開かれるようになりました。しかし収蔵品の質と量に比して手狭であったため、このたび全面的に改築され、今年の4月に新美術館がリニューアルオープンしました。 


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