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Saoriさんの「愛は能動的な行動」を読む

引き続き読後感を記していきます。

「愛は与えること」というテーゼの誤解の例として
・与えるとは何かをあきらめること、犠牲にすること
・見返りがある時には喜んで与える
・与えるとは犠牲を払うことだから美徳
が挙げられています。

そうですね、私もそういう地点を通り過ぎてきましたね。
自分を犠牲にしているその自分に酔う、という自覚もあります。

でも、心から相手のことを思いやって「与える」ときは、上に挙げたもの以上に、魂の喜びを感じます。
それは「自分に酔う」感覚とは違います。

自分の魂が喜んでいるかどうか。それを「感じる」ことは最低限出来ている気がします。

でも、これは前回引用したSaoriさんの記事にあった言葉ですが、
「私は相手のエネルギーに飲まれて自分を見失った経験が何度もある」
と。
簡単に先ほど「与える」と書きましたが、例えばカウンセリングなどで、クライアントさんとのセッションにおいて、無防備に自分の殻を解いてしまうと、相手によってはこちらの予想以上に何かを持っていかれてしまう、といったことがあるかもしれません。

私の経験上の「与える」なんて、所詮は電車の中で席を譲るとかその程度のこと。魂レベルでのエネルギーのやり取りではないのです。
「与える経験を知ってるから、愛が分かる」とはとても言えないな、と気づかされました。

しかしそれでも私は私なりに究めていくしかありません。
日々接する人々、自然、周りのすべてのもの。
「いま、そこに、愛はあるか?」
と意識的に問うていこうと思います。
(アイフルの大地真央さんのCMみたいになっちゃった)