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当事者になる前につまづく

今年の3月頃笹井宏之賞の授賞式に行ったら、出席者がみんなガチで短歌やってる人ばっかりで驚いた、ということがあった(念のために言うとわたしは受賞も応募もしてない)。わたしも新聞に投稿したりするから短歌をやらないわけではないかもしれないが、出席者の中では圧倒的に素人なのでちょっと不思議な気持ちになった。

短歌を熱い気持ちで好きな人たちは、短歌を作る側の人間でもあることが多い。


なんとなくの主観だが、こういう「やる人」と「好きな人」が被っているジャンルは他にもあって、演劇とかオーケストラとかはそっち系な気がする。やる側に立たないと細かいこだわりが理解しづらいからとか、色々理由はあるんだろうけど。

わたしはこれ系の何かをやる側になったことがないので、やる側にならなくても「好きな人」として当事者になれるものを探している。


何かをやる側になるというのは実は難しいことではなくて、ただ面白そうと思ったものを始めればよいのだと思う。その世界で1番になるとかいう目標がない限り(実はあっても同じなのだと思うが)、大抵才能なんていらない。「やる側」になるくらいなら、才能なんて全然いらなくて、熱意さえあれば本当に十分だと思う。

それでもなんとなくそのやる側に行くことができなくて、やる側にならなくても「好きな人」として当事者になれるものを探している。


でも「好きな人」というだけで当事者になれるジャンルにも難しさはあって、その世界ではそのジャンルについてすごく詳しいとか、すごく長い間それが好きとか、そういう人が当事者っぽく振る舞っている。本とかはこっち系だと思う。

これも実際にはそんなことはなくて、別に大した裏付けがなくても当事者のように振る舞っていいものなのだが、なんかつまづいている。


集団とか人に対しても同じで、何かの集まりに対して当事者意識を持つ権利は実はどんな人にもあるので、特に躊躇する必要はないんだなと思う。というか個々の当事者意識があるから集団が成立してるのだが。個人に対してもそうで、芸能人とか1回も会ったことない人が死んでも(しかもその人のことよく知らなくても)、わたしたちはとりあえずご冥福をお祈りしたりすることをゆるされているわけだから、そんな深く考えることもないのだと思う。

けど特に意味もなくつまづいている。


世の中には当事者意識なくしては楽しめないものが多い(人生とか)。けどなんかその意識が持てなくて、何をしてもなんか違うとしか思えない感じが続いてく。そういう違和感を無理矢理コントロールしようとして、バランスを崩して突然穴に落ちる時もある。あるんだけど慣れてるからまた上がる。できればもう落ちたくないけどまた落ちる。


そういう穴の底まで落ち切った状態を、疎外も圧迫もしないまま救済してくれる感じの音楽とか詩が世の中にもっと増えたらいいと思う。死ぬ前に自分が精神救済系だと思う曲一覧を遺書がわりにリストアップしたい。そしてそのまま葬式で流させたい。そんな死ぬ直前にしか達成されないわけわからん野望を抱える前に今やるべきことを今やる人になりたい。


こういう気分の時、わたしが本当に短歌とか詩を「やる人」だったら、何かしらの創作に自分の気持ちを昇華させられるのにといつも思う。実際は作品のクオリティにかかわらずとりあえずそれをやってみればもうそれで「やる人」なんだと思うけど。そこまでわかってても何故かやれないわけだが。