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蝶楽天の軌跡を追う[7]

国会図書館に複写依頼していた、雑誌のページが届いた。所蔵は京都にある関西館という所のようだ。発行されている全ての本が納本されているのかどうかは知らないが凄いアーカイブになっているのだろう。カラーページがあればカラー複写でお願いしたが、生憎とサンデー毎日の記事なので白黒だった。記事のタイトルは「虫の目虫の声」というもので2000年5月のものだった。岩本宣明さんという方がシリーズで昆虫界の人たちを四人取り上げられていて、兄の回は二人目ということだった。
2000年の記事なので、当時兄は西永福のマンションに木曜社の事務所を作っていたので取材先もそちらで行われていた。取材をされた岩本さん自身も、昆虫標本商としての兄の考えについては、当初ついていけない印象だったようだ。何せ売れ残りの昆虫標本が100万匹もあるのだが、それが残っていても兄は意に介さないことだったらしい。「いえ、全部売ろうと思って仕入れたのではないから。虫が欲しいだけなのよ。苦労して手に入れた虫を売るのはつらいもん・・・。」標本商であり収集家なのだろう、兄は笑ってそう話していたらしい。明治時代から日本では標本商が存在していて当時は日本の蝶を欧州の収集家にすでに販売していたとのことだ。戦後、兄が高度成長期に仕事として始めた頃には、外国の昆虫を日本の愛好家に売るようになっていったということだ。これは、先進国か途上国かを識別するのに昆虫を輸出しているのか輸入しているのかということだという人もいるらしい。
また、日本人の昆虫好きは人口比でみると突出していて世界で不思議と捉えられているらしい。欧州でファーブルの事を訊ねても分からないという人がほとんどだというニュースを先日テレビでも見ていた。日本では昆虫記か動物記かとファーブルもシートンも子供たちでは儀礼的にも通ってくるのだが、日本ではファーブル昆虫記を翻訳している仏文学者の奥本大三郎氏もよく子供たちには知られている。昆虫好きの俳優や好きなオサムシをペンネームにしてしまった漫画家もいるし枚挙にいとまない。
兄は現地に昆虫採集をする採り子を100人以上抱えていて、おもに東南アジアをベースに当時は年に6度くらい各地を回っていた。兄は各地の蝶の谷などを知っていて、いち早く蝶を見つけては種別状態を認識して採集ネットを振ってひねりを効かせて次々と捕獲していく。兄の通った後にはもんしろちょうも飛ばないと語られているほどだった。現地では、兄が長年指導してきた採り子たちが家族でそれを生業にして続けているので基地としていく度にお世話になっていたようだ。兄が行き始めた頃に少年だった人が今では父として、その子供が採り子をしているのだ。ある日私にFacebookでとあるフィリピンの人からメッセージが届いた。蝶のアイコンのその人のメッセージは蝶々の標本はいらないかというものだった。やり取りをしてみると私の名前が虫好きのMr.NISHIYAMAと同じだったので虫好きなのかと思いたずねてきたらしい。私は、その弟だよと話をすると驚いていた。外資にいて日常的に英語でのメッセージのやり取りなどは苦ではなかったので兄とは趣味が違うので昆虫標本は兄から飾りをもらう程度だよと書いた。彼は子供時代に、彼の父が兄からの手ほどきを受けて採り子になっていったらしく、彼自身も教えてもらいとてもお世話になっているらしかった。生憎と兄はネットアクセスは一切しないで手書きの人なので手紙でのやり取りを続けていたようだった。
さて、雑誌記事の中で兄の足跡を辿ると、東京オリンピックの1964年に台湾に昆虫採集に行ったらしい。高校生となって兄は京浜昆虫同好会のサロンに通うようになり先輩たちから技術や情報を叩きこまれる中で、採集旅行の話に乗ったらしい。とはいえ当時の費用で5万円というのは高校二年生には大きい。玉川学園の修学旅行の費用をキャンセルしてその積立金と溜めていた小遣いとで工面したらしい。船を乗り継いで台湾にいったというのだ。まあ、それを許す我が家の家風は親類からも異質な教育に映ったのだろうと思う。兄にとっての修学旅行はとてもその後の人生にとって大きなものだったのでしょう。そんな兄は子供の時からずっと最後まで標本に囲まれて生きてきた。
この記事の中に兄の言葉で「虫を殺して集める虫屋の原罪」というものがある。当時は自然保護の気運が高まっていてバードウォッチングなどから採らずに見るだけということが取り上げられていて、昆虫採集の趣味は批判にさらされていたそうだ。果たして人間が趣味でネットをふるう程度で昆虫がいなくなるとは思えない。とはいえ兄は趣味で昆虫を殺して集めることにはちょっぴり心が痛むのだという。これが虫屋の原罪だという。
さて、兄は74歳という若さで逝去したのだが、理由は肝硬変だった。バクチ打ちで飲んだくれといった噂は誤解で、兄は基本的に飲んべではなくアルコールを飲まない。兄の肝硬変の原因は長年にわたり標本作りには欠かせないパラチゾールに身を晒してきたからだったといわれている。事実、虫屋の友人が兄のところに遊びに来て標本部屋で話し込んでいると服に臭いが付くらしい。帰宅してはなざとく奥様からまた木曜社に行ってらしたのねと指摘されてしまうようだ。Yシャツに口紅が付いているわけではないから騒動にはならないだろうけれど。
兄の場合はきっと身体の奥深く染み込んでしまっていたのだろう。最後、食道の静脈瘤が破裂して緊急搬送されて一旦入院したものの肝硬変を直さないことには手術も出来ないということで容体の復帰をみて最後は家に帰りたいという事で家でパートナーと標本に共に整理したり最後の筆をとってウクライナ侵攻への状況についても彼なりにコメントを展開していた。読者の方々が皆さん好きだという「おどしぶみ」いわゆる編集後記では最後の日々を西国分寺で過ごしている日常に触れて誰もがタブーとしている、今ベビーブーマーとして生まれた団塊世代として自分たちの世代を早くいなくなるべきだと理解していることをつづっていた。兄は確かに虫屋の原罪を背負って逝った。しかしながら、彼は苦しむこともなく最後の昼食を食べていたし、数えきれないほど蝶々を捕らえて標本にしてきたのに、何故か蝶は彼の肩に止まるのだ。妹夫婦が、母と兄をつれて西穂高に出かけた際にロープウェーに乗るときに蝶が迷い込み兄の肩に止まり山頂駅で降りると飛んで行った。兄が、その蝶に掛けた言葉は、「お前はずるい奴だなあ」だったらしい。

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