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蝶楽天の軌跡を追う[3]

私の記憶は、戦後復興から経済発展をしていく時代の東京原宿で始まっている。今では、生活の木という店に転換してしまったが、祖母の弟が始めた重永写真館で撮っていただいた。恐らく重永の叔父が撮ってくれたものだと思う。兄・姉・私・祖母である。玉川学園に通学始めていたころの兄でもある。

1956年 重永写真館(現 生活の木)にて

兄の印象は、いつもりりしく恰好のいいというものだった。8つ離れた兄にとっては早世した弟(次男)のことを思ってかわいがってくれたのだと思う。小学6年の夏までは、この明治通りにあった竹下町の本屋と隠田の祖母の家とを行き来して暮らしていた。兄は採集旅行で日本を飛び回りやがて返還前の沖縄や台湾にまで足を伸ばしていた。時々兄が分けてくれたオロナミンCが懐かしかった。

1957年頃 明治通りの橋立書店にて

ハイキングがブームとなる中で、家族で山歩きするのもよくあることだった。家族でのハイキングでのお楽しみは皆での食事やら、お茶屋での休憩だったし丹沢の風景などは楽しめた。
時には兄に連れられて山歩きをすることもあったが、兄は本当に自然が好きなのでお茶屋が楽しみで来ている年の離れた弟の思いは中々理解してもらえなかった。写真家であり近くに住んでいた松香宏隆さんも一緒だったような気がする。

家族で石老山を訪ねた、兄弟は五人となっている。

五人兄妹が学齢に達する頃には二段ベッドが二つあった。兄が玉川学園に通学しているころ姉と私と妹の三人は連れ立って本屋の家から神宮前小学校まで三人で通学していた。姉が中学に進む頃、両親の期待は姉の自由学園への挑戦結果にもあったが残念ながら叶わなかった。相変わらず大家族で兄妹たちは祖母の家での夕飯を済ませると、明治通りを歩いて本屋の二段ベッドに向かうという形をとっていた。
表参道には、東京五輪の頃には沢山のマンションが立ち並び未来的な印象の街になっていた。かつての母が同潤会アパートへの配達が好きだったことの再現なのか、私は高級マンションのお客様への配達を時々任されることになりエレベータで配達するのが気に入っていた。近くの社会事業大学の先生が購読しているマンガも配達していたのだが、その頃は大人が大学でマンガを読んでいるのはずるいなと思ったりもしていた。
そんな高級マンションの一つであるコープオリンピアに入ったスーパーでマトンを扱うことが分かり、我が家では祖母が使ってきたものかどうかは不明だがジンギスカンをするようになった。我が家でのソウルフードとは違うが、祖母にとっては思い出の味だったようだ。
ではソウルフードは何かといえば、餃子だったり薩摩汁だった。祖母が住んでいた家の二階にはいろいろな人が住んでいたので台湾の女性が住んでいた時に教わったのか餃子はよくするようになっていた。兄は料理好きで、餃子の皮から作るのが得意だった。さつま汁というのは鯛やホウボウなどの白身魚を焼いて身をほぐして味噌をまぶしたものすりこぎでつぶして鉢ごと裏返してコンロや火鉢で焼いてそれにこんにゃくやだし汁をなじませていくというものだ。それにネギを刻み、ご飯の上にかけて食べるというもので冷や汁に近い物かもしれないが、愛媛での料理のようでさつま汁とか「鯛さつま」などという。当時は鯛が高かったのでホウボウを祖母はよく使って作っていた。兄は、このさつま汁も大好きだった。

今はバーナーで作るのが簡単だと妹がいいます
これがソウルフードです


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