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蝶楽天の軌跡を追う[5]

昆虫界の週刊誌であるTSUISOは、国会図書館に納本されているのでバックナンバーは全部読めるつもりでいた。木曜社から株式会社エルアイエスになり又木曜社にと発行主体が活動しているベースに合わせてTSUISOの編集後記の下に書かれている内容は更新されてきた。兄からは国会図書館に全て出していると聞いていたので、標本商をしながらも研究者としての記録として図書館に納本することを矜持としてきたのかと思っていた。
兄の逝去からネットに残っている蝶楽天への軌跡を追いかける中で国会図書館で雑誌に掲載されていた記事の複写サービスなどをかけて二つの雑誌記事を見つけていた。科学朝日とサンデー毎日の記事だ。ナショナルジオグラフィック日本版はどこかに買ってあったし、サイトから兄の注釈ページ以外は見ることが出来た。かつて、兄が雑誌に載ると母が嬉しそうに親族に伝えていたように思う。おかげで長男である兄の事を「虫のお兄さん」と呼ばれていたりもした。
さてTSUISOについても国会図書館での所蔵情報を検索すると、1984年1月2日発行の401号からの収蔵となっているらしい。この年には一体何か事件があったのだろうか、虫仲間の人ならば知っているのかもしれないし、きっと401号のTSUISOには関連した事件が書かれているのかもしれない。ちなみに国会図書館に収蔵されているのは1683号までで、以降の1684-1689は収蔵されていない。兄が納本していないのだと思う。最後の号は発送されたとは聞いていたが虫屋さんには虫の知らせとして先に訃報が届いたのだろうか。
サンデー毎日の記事、ドキュメント人間「虫の目虫の声」は、北海道の昆虫専門店のサイトで兄のことを紹介している中で見つけた。多分、この記事は読んだことがあるのだと思う。岩本宣明という方がシリーズで書かれていたようだ。塚本悦造さん、栗本彗さん、山本大輔さんの4編をかかれている。
北海道の昆虫専門店さんではTSUISOの定期購読の案内まで載せていてとても気に入っているらしいことが伺える。Webサイトは奥様が手掛けられているようでご主人が持っている古いバックナンバーの74号は発行の翌年のものらしい。辛口エッセイ(編集後記のおどしぶみなのか、兄が書いている部分の記事なのか)が好きらしく、「回し読みを許可する 見せ惜しみをのぞむ」と書かれていたのが堪らないらしい。いたずらっぽい兄の顔が見えてくるようだ。ちなみに最新号の巻末に書かれていたのは「信頼と友情の会員に捧ぐ情報誌」だった。

姉弟として兄を誇らしく思っていたのも確かで、姉は聖路加看護大学を経て一時病院勤務の後、大学に助手として戻った。姉と私は社会人では同期で大卒と高専卒で2年の差が縮まっていた。姉が助手で勤務しているときに新たに大学卒業後最初の産婦人科の卵が聖路加病院に入ったそうです。新任の先生は蝶の採集が趣味だったようで学園祭の時見せたい標本を飾っていました。エレベーターの中で一緒になることがあったそうで姉は「兄を知っていますか?」と尋ねたところ、凄い尊敬する存在だったようで遭遇の妙にビックリして、 東南アジア島嶼の蝶の図鑑についても購読されたと聞き御礼を伝えたと話していました。その後姉の後輩と結婚したらしい。兄もこのカップルのことについて知っていたようです。

兄も姉も結婚の素振りも見せぬままという空気が流れていた不意に我が家に流れたのは南の島フィリピンからやってきた一陣の風をまとった義姉になる娘さんだった。とんとん拍子で結婚式の日取りが決まり、現地マニラで挙式をし父母と弟妹を代表して私が参加することになりビデオカメラをレンタルしていった。パスポート取得やら初めての海外旅行はマルコス体制下のフィリピンだった。兄のネットワークでお知り合いの読売新聞の現地特派員の方にもお世話になった。マニラ市内でもまともに信号機もない道路であり、渋滞で車が止まると人の乗っている車には売り子の子供たちがお菓子を売りに来たり寄付をせびったりによってきた。果物を積載しているトラックには猿のようなすばしっこい少年たちが荷台に飛び乗り列を作っては果物をキャッチボールリレーをしていき車が流れ出すとササーっといなくなった。そんな南国の中で、バロンタガログの正装を着て賑やかな結婚式に列席した。現地では素手で食べるのが礼儀らしいのでそれに倣って食事も楽しんだ。タガログ語と日本語の通訳は兄ぐらいしかいないのだが結婚式のスポンサーとなった花嫁の伯母さまと話をして結婚式を終え父母と私は兄夫婦の新婚旅行にお邪魔虫でセブ島にいったり、マニラ郊外の地に出向いて兄が蝶を追いかけていた風景を納得したりしていた。

兄の結婚式のおかげでパスポートを作っていた私は、当時国内の通信機メーカーで輸出向けの自動車電話の開発を終えた後、急遽現地での稼働確認の出張にいくことが決まりパスポート保持がバレていたので初めての海外出張は途中二回の乗り換えを経てまだまだ砂漠の都だったカタール国にしばらく出張してフィリピンでの経験で現地の食堂での料理もその地のエンジニアと同様に素手で食べたところ日本人の仲間に驚かれた。なにより現地のプレート(定食)を食べていたのに驚かれて、ほとんどの日本人は出稼ぎインド人に向けたカレーを食べていたのだった。訝しく思う先輩たちに海外を飛び歩く蝶を採集している兄のことを伝えて先日の結婚式のことなどを伝えて納得してもらっていた。

兄の昆虫界とのつながりは、やがて東南アジアに展開していた会社の通信機器ビジネスでフォーカスされた。PHSが東南アジアでの通信市場で大きく花開いたのだが、設置した環境で予想もしない通信トラブルに遭遇したのだった。電柱に取り付けたPHSの基地局に食われてしまった中にビッシリと彼らのマンションのように棲みついて機械を壊してしまったのであった。蟻はギ酸を出して金属ケースのつなぎ目のガスケットを溶かして中に侵入していたのだった。もとより東南アジアでは蟻が棲んでいるのは木の上で枝から枝に渡りながら暮らしていたのだった。地面はスコールで水が出たりするのが常で住居自体も高床になっているのだった。見るもおぞましいビデオを会社で見せられて、兄の伝でこの蟻を特定して対策を教えてもらいたいということだった。兄と電話で話をして伝えると、東大駒場の蟻の専門家の先生を紹介していただき担当者と訪ねて蟻の種類と習性、対策として有効な薬剤を教えていただき現地での対策がとれて解決につながった。

やはり兄やその仲間は研究者たちなのだとつくづく思うのである

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