陳王廷の詞(意訳)1

突然ですが!

今回から陳家太極拳の祖「陳王廷(生没年不明、1600年代)」が詠んだ、とされる詞を何回かに分けて訳してみることにしました。

"とされる"としたのは、この詞が世に出たのは子孫である陳鑫(1849‐1929)の著書であり、陳鑫の手が加わっている可能性が大きいといわれています。(研究者の唐豪も指摘)

実際読んでまがりなりに訳してみると、日本で見られる意訳とそこそこ違う内容になってしまいました😅

ということはこの詞は研究・解読するに余地のあるもの、とも考えることができるのかな?と思います。

ちなみに陳家太極拳をされる方々には有名なものらしいのでもし陳家太極拳をされている方の暇潰しになればと思います。

それでは

【原文】
嘆當年。
披堅執銳。掃蕩群氛。
幾次顛險。蒙恩賜。
枉徒然。到而今年老殘喘。
只落得黃庭一卷隨身伴。

【意訳】
ああ、あの時は、
鎧をまとい武器をとって、匪賊を掃討したものだ。
何度も困窮し危険な目に会ったが、恩賞も受けることもあった。
しかし空しく時は過ぎ、今は年もとり余命いくばくもない状態、
ただ『黄庭経』一巻を傍らに置く身である。

【悩んだ所等】
詞は口語的要素もあったり、リズムで読むものなのでかなり区切りをつけるのが難しい。今後もそうですがあくまで私の意訳なので正しいかどうかは専門の人にまかせます。

さて一般的な意訳では
「幾度か危険な目に会い恩賞も受けたがそれが何になろう」
というような訳がされる。

私的には王廷は最初にある通り、自ら武器を取って戦っていることを回想しているので、その成果のひとつである「恩賞を受ける」ことも誉れとして述べていると感じた。

また一般的な意訳だと恩賞をうけたこともだが、武器を取り戦って幾度かの危険を潜り抜けたこと自体を否定する感じになるように思われる。

"枉徒然"という言葉は無意味になにもせずじっとする様をあらわす。

恐らく恩賞を受けてあとの場面転換がここでおこなわれていると考えた。また"落得"が"結果としてそうなる"的な意味でもあるのでここに落ち着くと考えた。

なので訳するときは先に示したものでもいいと思うが、訳さずに場面転換が表現できていれば問題ないか思う。

つづく…
 

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