思春期の私を過去にしたくないな、と思ったこと

 こんにちは。週末ですね。不要不急の外出自粛の黒陽です。

 とはいえ昨日スーパーでせとかを買ってきたので最強です。これで余裕で優勝できます。せとかは課金すべき対象。一言で言えば「おれのかんがえたさいきょうのみかん」みたいな果物です。ジューシーで実がぎっしりしていて、甘みが上品。口当たりもいい。お値段もそれなりにするので、ご家族だったり、いっぱい食べたい人にはちょっと合わないかもですが、私のような少食で美味しいものが食べたい民にはうってつけです。せとかはいいぞ。

 あとはyouTube Musicがあれば余裕ですね。無限にエキサイトできますね。音楽聞きながら、作業したりご飯作ったりお部屋のお片付けします。


 というわけで、今日の本題です。先日に続いて、これは自戒です。「私はこんなことができるぜウェーイ」というお話ではなく、寧ろ私自身が忘れがちなので文字に認めておきたいお話。

 占いは当たる。マジで当たる。私が初対面のお客様に「あなたはこんな人で、こんないいところがあるんだけど、それゆえにこんなことで困ったりしませんか?」って言ったらだいたい合ってると言われる。「付き合ってる彼がいて」って言わて「こんな人ですね。こんなところがある」って言ったらなんで分かるんですかって驚かれる。(自分でハードルを上げていくスタイル)

 ただ、それゆえに、「自分は正しく視えている」と思いがちだ。占いで用いる何らかの象徴(タロットだったり、ルーンだったり、占星術の星だったり、オーラだったり)は、確かにその人の人生の縮図だ。けれど、人生とはもっと雑味を含んだ具体的なもので、人間は占いの世界ではなくて具体的な人生の中に生きている。

 占いを信じないという人の言い分として、例えば「星座占いとかあるけど、人間をたった12種類に区分することができるはずがない」というものがある。もちろんそれは誤りで、そんな雑なものの見方をしている占い師はいない。12星座はあくまで、「文系と理系」のようなざっくりした区分であって、その区分をしたうえで、さらにものすごく細かくて複雑な情報を見ながら判断をする。

 タロット占いにしてもそうで、例えばケルト十字というスプレッドは10枚のカードを使う。タロットのフルデッキは78枚で正逆もあるので、ケルト十字のパターン数を求めようと思うと78*2*(78*2-2)*(78*2-4)×…(78*2-18)通りということになる。スマホの計算機では計算できなかった。

 まぁ、「占いとは決して雑なものではない」という弁解をしたうえで、やっぱり人生は占いよりもずっとずっと情報量が多くて複雑なものだと思う。

 占いの結果として「こんなやり方の方がいいよ」というものがあったとして、すんなり切り替えられないのはそれまでに積み上げてきたものに対する自負であったり、愛着であったり、まぁ執着だったり報われない気持ちだったりが、あるからだったりする。

 もちろん、「これは良くない」と言われてそれが合理的ならばあっさり切り替えられる人間が、利得を得られるし、潔いのだとも思う。しかし、理想像というのは達成するのが難しいからこその理想なのであって、誰にでもできるならばそれは常識や本能なのだ。

 人間の本能という話をするなら、私は寧ろ逆で、恒常性こそが本能だと考える。これまでやってきたことを繰り返すこと。生物が生存しようと思うと、これまでやったことを繰り返せば少なくともイレギュラー以外には対応できるので合理的だ。当然ながら死んだ奴は恒常性を発揮しようがないので、「今生きているということは、これまでやってきたことが正解だった」と本能的に考える生物の仕組みは、基本姿勢として良いと思う。

 これまでご飯を食べて生きてきたから、今日もご飯を食べる。だいたいの雑事はそんな判断で問題ないと思う。「ご飯を食べることが生存にとってプラスか分からないので、実験的に一年ほどご飯を食べるのをやめてみよう」とか考える種は、当然ながら死ぬ。

 ただ、この恒常性というやつを悪用するのが、毒親やモラハラ野郎や詐欺師の洗脳なのだ、ということも確かではある。

 人生に対する愛着というのは恒常性の賜物なのかもしれないし、もっと高度な人間性の発露なのかもしれない。いずれにせよ確かなことは、人間はこれまで積み上げてきたことに拘らずにいられないということだ。

 当たり前だ。生きてきたのだから。生きるということは、善人でも悪人でも、金持ちでも貧乏人でも、命懸けの試行錯誤の連続だからだ。恒常性だなんだと書いてきたけれども、人が今まで必死に積み上げてきたものに愛着を感じるなという方が、そもそも無茶な話なのだ。

 占い師は、相談者の人生に対して、あくまで第三者である。なので、「もっとこうした方がいい」といった改善策が色々と出すことができる。それは、第三者であるが故の一つの価値ではある。

 けれど、「本人はそもそも必死なのだ」ということを忘れてしまったら、スポーツ選手に「何やってるんだよヘタクソ」ってヤジを飛ばす観客と変わらなくなってしまうのではないか。

 もちろんハッキリ言うべき局面というのもあるし、そういう局面でなあなあにしてはいけないとも思う。ただの馴れ合いであってもいけないと思う。けれど、誰だって頑張っているということは忘れてはいけないなと思ったので、認めておく。



 中学生ぐらいの頃の自分。反抗期真っただ中の頃の自分は、周囲の大人に「もっと勉強したほうがいい」「こんな常識を守らなければいけないのに、なぜそれができないの」といった風に、上から目線で文句をつけられることに辟易していたはずだ。

 大人になって、人生に対する様々な解決策を知った。焦らなければ大抵のことはどうにでもなるということを知った。言いたいだけの誰かの価値観に合わせて生きていく必要はないと知った。

 だからといって、忘れてはいけない。そういう気持ちは。

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