もう一回と思ったのは此処にいるわけにいかないから

ヒトリエ/November

HOWLSは神アルバムなのでよろしく。


 昨日は、ずっと家で潰れていた。一昨日の夜にラーメンを食べたっきり、砂糖菓子を摘まんだ以外何も食べていなかったので、いい加減まずいと思って20時頃にコンビニに向かった。その後、少しだけ占い師の仕事をさせていただいた。

 私もしんどいときはさぼる。それでも鑑定だけは手を抜いていないつもりだ。寧ろそのために他のことをさぼっているような感じ。お仕事ください!

 占い師があんまり自身の不調を表沙汰にするのは、褒められたことではない。えらてんさんもネガティブな雰囲気は極力出さないようにと言っている。不調の話はとても取り扱いが難しい。

 それでもあえて書くのは、私自身、ここ最近が変革期だと感じるからだ。

 やりたいことはいくらでもあった。書きだしたらきりがないぐらいに。やりたいこと全部やるのに、人生何十年要るんだろうと思うぐらいに。カバラの研究、霊能力の研究、占いの勉強、哲学の勉強、カルトの研究、税理士の仕事、経済学や経営学ももっと学びたい。ボランティア活動、俳句も好きなので俳句でも何かやりたい。もっと歌いたい。演劇やりたい。

 それでも、疲れている自分、傷ついている自分も間違いなく存在する。前回いじめの話を書いたけれども、人生でキツかったことはあれの3倍は優に超える。考え方や環境は努力で変えられるが、心の傷や脳の損傷はすぐに治りはしない。

 前回、いじめの話を書いて感じたのは、私は被害者のままでいたくないのだということだ。知ってほしかったことは、首を絞められたことや吊し上げられたことではなく、立ち上がってきたことだ。だけれど、現実的に私は被害者だ。被害者とは社会的な関係性や利権の問題ではなく、人生において損害を被ったことを意味する。

 それでも、立ち上がってきた。立ち上がる努力をしてきた。他者に破壊されてきたものを、負けてたまるかという意地で取り戻してきた。人生は闘争であった。私は被害者ではなく闘争者であった。或いは創造者であった。

 「被害者」という立ち位置を振りかざすことで、自分のこれまでの努力も、集めた夢も、否定されるような気がしていた。私は治療者ではなく戦友を求めてきた。活路はひたすら前を向いて、人生の障害を排除する以外にない。「被害者」という肩書が幸せな人生にとって必要ならば使えばいいし、そうでないなら伏せるに越したことはない。

 結果的に、「傷ついた、被害者の自分」と「夢を追い求める、強い自分」が分裂した。「可哀想だ」と言われてもイライラしたし、「あなたは強い人だね」と言われても置き去りにされたように感じた。その状態を自分でも上手に言語化できなかったものだから、猶のこと混乱した。恐らく、「被害者に出来ることは何もない、無力な存在である」と自分を締め出していたのは、自分自身なのだろう。

 結論としてはシンプルで、「色々あったけど、立ち上がった私を見ろ!」これでよかったのだと思う。それを周囲の人々が受け入れられるのか、私の声が被害者像のステレオタイプにかき消されるのかは、また別の話だ。

 少なくとも、このまま終わっていいはずがない。討死ににはまだ早い。此処ではないどこかへ進まなければならない。他でもない、自分の足で。

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