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【note限定】『陽だまりの果て』著者・大濱普美子氏、書き下ろしエッセイ

国書刊行会

発刊以来静かな支持が広がる『陽だまりの果て』の著者・大濱普美子さんから、本書にまつわる書き下ろしエッセイが届きました。本書をすでにお読みになった方も、まだの方も、どうぞお楽しみください。

記憶のかたち、かたちの記憶


 
目の前の壁に、五枚の油絵が掛かっている。全て同じような色と形と大きさをして、上背は二メートルくらいもありそうだ。一目したところぼんやりとおぼろげな画像は、光と影とが作り出した模様らしい。縦長の窓があって、その硝子の表面を覆い尽くしてキャンバス地が下がり、そこに外から光が射してくる。おそらくは春か秋の午後、二時か三時頃の陽光が、柔らかく裏側から画布を照らしている。カーテン代わりに掛けられているのか、キャンバス地には縫い目があり隙間もあり、ところどころ皺やたわみが見られる。そこに映った窓枠の影も、それに沿って緩く曲がったり歪んだり。外に置かれた鉢植えの葉が、先端を霞ませ影絵になって並ぶ。射している陽射しの明るさが、画布のこちら側まで染み出してくるような絵だ。この一連の作品を見るために、私はヴィスバーデンにあるギャラリーにやって来たのだった。
 完成間近のその絵を見たのはおよそ二年ほど前、ちょうど『陽だまりの果て』を書き始めた頃で、もう二十年以上師事してきた画家のアトリエでのことだった。画家はアハマッド・ラフィというイラン人で、昔々アメリカに亡命しようとしてかなわず、中継地点のフランクフルト——ドイツにはフランクフルトと名の付く町がふたつあるが、広大な空港と金融街で知られる旧西側のフランクフルトの方——に居ついてしまったという経歴を持つ、傑出したアーティストである。
 その絵に描かれた窓のあるアトリエは、フランクフルト市の中心部に近い建物の最上階にあった。板張りの床は、時に生徒が十人ほどそれぞれにイーゼルを立てて大判のアクリル画に挑んでも十分に余裕のある広さで、四囲を広大なバルコニーに囲まれていた。天井が高く採光がすこぶる良いという、絵を描くのにこれ以上は望むべくもないような環境だった。
 建物全体がある教会の所有となっていて、最上階のアトリエを含む各階の住居は一種の社会事業として貸し出されていたそうだ。ところがそのうちどこで何がどうなったものか方針が変わり、別の目的に使用するため大規模な改装が施されることになった。はた目にも急激な方向転換から振り落とされた体の住人たちは、全員退去を余儀なくされ、画家もまた地下室に保管していた大量の絵もろとも、街の中心から離れたマイン川沿いのもっと小さなアトリエに引っ越して行ったのだった。
 かつてアトリエがあった最上階がその後どうなったのか、いかなる用途に供されたのかは知りようがない。バルコニーに置かれていた不揃いな鉢植えやカーテン代わりのキャンバス地はもちろん取り除かれ、青緑がかった灰色のペンキで桟を塗られた窓もおそらく撤去されただろう。新しい窓枠に取り換えられたか、少なくとも塗り替えられたかして、かつての景観は失われたに違いない。絵に描かれた空間は、今は存在しない。古いアトリエの面影は、ただそこに暮らした人、そこに通い訪れた人々の脳裡に、移ろう記憶としてのみ残存している。
 「どうしてそんなふうに感動したのか」
 称賛のことばを口ごもりその場に立ち尽くしていた私に、画家はそう尋ねた。その口調には、自身の作品の効果を目のあたりにして喜ぶという以上に、純然たる好奇心の響きが聞き取れ、私も真摯に答えるべく頭の中を懸命に探した。
 シリーズ第一作目となったその絵は——いずれ制作される他の四点も同様なのだが——まず手前に影の映ったキャンバス地、その後ろに硝子窓、更にその外に鉢植えなどを乗せた棚があり、背後から陽が射してくるという構成で、二次元の中に複数の層が閉じ込められている。歪んだ影に見入り、元の形を推測するうち、何か他にもそこに描かれていない物があるのではないかと、疑われてくる。ここからは見えない物がまだいくつも背後に潜んでおり、それは一体どのような物なのだろうと、キャンバス地のカーテンをめくってみたい思いも湧く。
 なぜかしら画布の奥へと関心が向かうのは、視線を惹きつけてやまない絵の巧みさもさることながら、見る側の裡に呼応する映像があるからかもしれない。と、そう考えてみた。
 生まれてこの方、目を見開いて以来、様々な光景を目にしてきた。〈陽射し〉も、それが映し出す〈影〉も、数えきれない場面で繰り返し繰り返し見てきたはずだ。その映像は各々、その時の明るさや温かさの感触と共に脳のどこかに焼き付けられる。失われることも色褪せることさえなく、気づかれぬままそこに保たれている。視覚の奥には、そうやって幾重もの層を成して堆積した記憶が控えていて、このような優れた絵を触媒として一気に喚起されるのだ。かつてどこかで見た〈陽射しと影〉が、視床の底から数限りなく蘇り、一斉に立ち上がってくる。それは目くるめく眩惑的で、この上なく多幸的な瞬間だった。
 『陽だまりの果て』の帯に、皆川さんが書いてくださった「生と衰と死・・・」。いつか自分が死ぬことは、この世でほぼ唯一確実なことなのに、これまでその時を想像することができなかった。けれど視覚的な記憶とその厖大さに思いをなすと、最後に目にするのはそのような映像の繋がりであるのかもしれないと、そんなふうにも思う。死の間際になって、視覚も聴覚も触覚も臭覚も味覚も失われ自身の殻の中に閉ざされたとき、見えてくるものは記憶の中にしかない。〈陽射し〉や〈影〉の映像が、何千枚、何万枚、否何億枚ものスライドを映し出すようにして立ち現れる。それらは次々と入れ替わり重なり合い溶け合い、最後に一瞬ズズっとブレた後、古い昔のテレビを消したみたいに平坦な線に収斂してプツンと途切れる。かようにして、一生涯に蓄えられた莫大な量の映像が消え、全ての記憶が消滅する。意識の終わりとは、そのようなものであるのかもしれない。
 現に今見ている光景も、そうして記憶の奥底に保存され、あわよくば時に再生され、やがていつか他のあらゆる場面と等しく消去されて確実になくなる。ただ目の前にある絵は、その不確かさとはかなさと移ろいさえをも色と形にして視覚化し画面に定着させて、不変に残すことができるのだった。
 最後の記憶と記憶の最期、そこへと誘う絵のからくりをつらつらと思いながら、壁の前を幾度か行き来した。改めて最初の一枚の前に戻りその場に立って、柔らかに陽の射すキャンバスとその上に揺らぐ影を、しばらくの間じっと眺めていた。

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『陽だまりの果て』
大濱普美子 著

四六判・ 384 頁
ISBN978-4-336-07343-3
定価2,420円(税込)


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