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「共通テスト「国語」における記述問題導入中止を求める緊急声明」コメント集(1)

 2019年11月28日(木)~12月5日(木)に行った署名活動には、署名とあわせて、800通を超えるコメントが寄せられました。いずれのコメントも、この問題への深い理解と教育に対する真摯な問題意識に貫かれたもので、「発起人だけで共有するのはもったいない」と感じるものばかりでした。ごく一部ではありますが、代表的なものを抜粋し、ご紹介いたします。

 個人情報が特定されないよう配慮したつもりですが、コメントの削除を希望される方は、発起人会メールアドレスまでご連絡ください。 

 まずは、実際に入試業務・採点業務に関わった経験をお持ちの方々、日々教壇で生徒さんたちと向き合っている方々からのコメントです。

中学校国語科教員を35年勤めました。記述式の採点は本当に大変で、アルバイトにできるものではありません。
元高校国語科教員です。入試の採点にも携わっておりました。
採点基準を時々刻々改定し、なおかつそのことを採点者全員が即座に共有しなければならないことは、身に沁みて理解しています。11月27日の文科委員会の質疑を視聴していて、採点体制の杜撰さに、改めて呆然として言葉を失いました。どんなことがあっても、記述式導入はあり得ません。これは、この国の教育に計り知れない傷を負わせます。
先生方が声明を出して下さったことに心から感謝し、声明に賛同致します。
国立大学で入試事務を担当しています。大学として反対の声をあげずらいので個人として趣旨に賛同いたします。一刻も早く大学入学共通テストにおける国語及び数学の記述式問題が中止されることを切に願います。
島しょの国語科教員です。どれだけ考えても中止にしない理由が全く理解できません。微力ながら支援させてください。
多種多様な解答を採点するためには時間も経験も必要です。それと自己肯定感の低い子は自己採点も低く見積もるので、実力に見合った大学を諦める可能性が高い。記述式導入には何のメリットもありません。
主婦ですが、元中学校の教員です。記述式の採点を公平にするなら、条件通りに書けたか、書けなかったか、だけです。そして条件を細かくすればするほど、記述式の良さは失われていきます。だからこそ、授業の中での見取りを大切にして評価しているのです。膨大な時間をかけて、愛情もかけて、発想が面白いねとか、表現が好きだなぁとか声もかけて、間違えた言葉遣いは正して、自分の考えを自信を持って書けるように育てるのです。大学の入試レベルの記述を求めるのなら、とても数問の解答で、経験の少ない学生アルバイトさんが採点できるものではありません。簡単に採点できるような問題なら、問う意味がありません。高校に行ってから受験のために、ただ条件に合わせて書けるように訓練するならやりきれません。長年話し合ってきたことなのはわかります。でも、私も20年以上現場で教育に携わってそう思うのです。税金をたくさんかけて、無駄なことをする余裕はないはずです。ぜひ、中止の英断をしていただきたいと思います。
教員経験は浅いですが、記述問題の採点基準統一の困難さは実感しています。受験生が公正な評価を得られるように、また国語科の学びの奥深さが減らないこと強く願います。
記述式の問題は、具体的な生徒を想定し、出題者と採点者が話し合って採点基準を微調整しながら採点できる規模で行うことで、質の高い作問や採点が可能になるものです。客観式(マーク式)の問題で測れない要素は、各大学の二次試験で工夫して見ていただくのが良いと考えます。
主体的な記述力は採点者の主体的な見方でしか評価できないため、採点にゆれが生じうるのは当然です。逆に考えれば、採点にゆれが生じない問題は客観的な問題であり、マーク式で問う場合と変わりません。お金と手間がかかるだけです。
記述式問題などによって多様性を評価しようとすることと、統一した全国規模の新テストは馴染まないものです。新テストでの記述問題導入は中止していただきたいと思います。
 記述問題の出題は、各大学が(二次試験等で)相応の規模・採点体制のなかで行うべきである。声明文に付け加えると、記述問題の採点には内容、表記、語彙、文法などの基準が設定されるだろうが、内容や表記はもちろんのこと、語彙や文法であっても細部の統一的な採点が難しい。そもそも日本語母語話者でも各自が「標準語」「共通語」だと思っているものにはゆれや世代差、地域差があるので、ちょっとした言い回しもある採点者たちには問題なしと受け止められるが、ある採点者たちには減点対象とされることも起こりかねない。規模が大きすぎると、こうした細かい部分のすりあわせが困難だと思われるが、さらに受験生はこうした部分の点数を自己採点することが難しいと思われる。
大学・大学院と教育と文学を専攻して学びました。今は会社の立場ではありますが、様々な学校へ行き教育に携わっています。教員をしている仲間も、大学で教えられている教授も、日々、より子どもたち、学生たちの個性と能力を引き出すために、研究しています。私も、文章で表現させる取り組みをしますが、その評価は必ずしも相対的に評価できるとは限りません。文章は人を表します。時に絶対的な評価に繋がるものもあります。確かにマークシートで国語の点数が決まるのも良い方法かは今後も検討が必要だと思いますが、文章で評価するというのは、一定の範囲内でしか評価の差をつけられないと思います。むしろ、統一試験において記述で評価できると今言えている理論を持っていることが、いかに理解していないのかということを露呈していると思います。見直しを強く求めます。
作問・採点の物理的な問題以前に、個性や主体性を無視する解答を求めるもので、選択式と何ら変わりありません。国の求める解答を書くという恐ろしいものです。
 東京大学では「自らの体験に基づいた主体的な国語の運用能力」を求めています。このような問題を作り、採点できますか?。記述問題は各大学の「主体性」にまかせるべきです。
 採点の面からでは、経験上一人で40人の採点をしても「ゆれ」はあります。どんなに基準を決めても表現によってゆれはでます。しかも「考えた」と思える解答には正解例から若干ズレはあっても得点は与えます。1万人で50万人の採点などどう考えても公平性はありません。そして個性の無視です。
 今日発表の国際学力調査の読解力の低下も教育の時間不足だけではなく、決まった解答を求める姿勢にあると思います。
 まだまだ意見はありますが、記述問題導入は危険であり反対です。

▼本コメントにかんする問い合わせは、下記の発起人会メールアドレスまでお寄せください。
 kokugostop2019[*]protonmail.com →[*]を@に変えてください

                   (コメント集(2)に続きます)

 


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