KokugoNote #28映画のこと

こんばんは、皆さん!

高校3年生の頃から、映画を観ることをほぼ日課としてきました。試験勉強など「しなくてはいけないこと」に疲れたときに気分転換に読んでみてください。

つい先ほどまで『世界から猫が消えたなら』という川村元気原作、永井聡監督、佐藤健・宮崎あおい主演の映画を観ていました。2016年の映画ですね。当時、教えていた子にたまたま原作本を借りて読んでみたのですが、その時は物語の枠組みがしっかりしていたので、映像化するにはもってこいだなあとしか感じていなかったのですが、永井聡監督の演出が見事ですっかり気に入りました。『恋は雨上がりのように』(2018年)、『帝一の國』(2017年)も同監督の作品ですが、展開が巧みで映像の繋ぎ方がとても面白い監督さんだなあと、今後の作品にも先生は期待しています。

 さて、あらすじは次の通りです。(公式サイトからの引用)

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 主人公は30歳の郵便配達員。愛猫キャベツとふたりぐらし。母を病気で亡くしてから、実家の父とは疎遠になってしまいました。恋人はいません。別れてしまった彼女のことを、まだ想い続けています。趣味は映画鑑賞。友だちは映画マニアの親友が一人だけ。そんな彼が、ある日突然、余命わずかの宣告を受けてしまいます。脳に悪性の腫瘍ができていたのです。
 ショックで呆然とする彼の前に、とつぜん、自分と同じ姿をした悪魔  が現れて言いました。「世界から何かひとつ、ものを消すことで、1日の命をあげよう」…。悪魔のささやきに乗せられた主人公は、次々とものを消していきます。電話、映画、時計、そして、猫。ところが、何かを消すと、大切な人たちとの思い出も一緒に消えてしまうことになり…これは余命わずかの彼に起こった、せつなくもやさしい「愛」の物語です。
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 「電話、映画、時計、そして、猫!?大切なものを一つ消すこととひきかえに、一日の命をもらえるとしたら?」というキャッチコピーとともに、死について考えるというテーマで描かれた作品でした。

 まだ高校生の段階では、身近な人の死を体験することは少ないだろうし、に自分が死に襲われることもなかなか現実的に考えにくいことだと思います。毎日目まぐるしく過ぎていく中で、退屈だったり、時々刺激的だったり、楽しすぎたり、何もなかったりしている時に、〈死〉について考えることは不適当かもしれません。けれども、私たちがどういう思いでいるかなど無関係に唐突に訪れるものなのです。

 つい先日2月5日も、神奈川県の逗子で道路脇の斜面が予兆もなく崩れ落ち、朝8時、通学途中の女子高校生を呑み込んでしまったという哀しい出来事がありました。彼女だけがその被害に遭ったのですが、人生の分岐点はどこにあったのでしょう?「あ、スマホ忘れた」と家に取りに帰っていれば、緩んだ靴紐を玄関で結び直していれば、うっかり二度寝していれば、この命は助かったのです。何が起きたのか解らない、夢か現実か理解できないというショックについて、ちょうど後ろを歩いていた男性が語っています。


 『徒然草』第41段「賀茂の競(くら)べ馬」でもこのような台詞が紹介されていました。「我等が生死(しょうじ)の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」私たちの死は今すぐにでもやって来ることがあるだろう。それを忘れて、競べ馬を見に来て暮らしているというのは、愚の骨頂ではないか〕

 誰もがそのようなことは言われずとも知っているのですが、思いかけない気持ちになって、ふと胸を突くのだろう、と兼好法師もこの段の末文で触れています。なぜなら、「人、木石(ぼくせき)にあらねば」という理由からです。中国は唐の時代の詩人、白居易(はくきょい)の言葉です。人は感情のない木や石ではないのだから、ふとした時に心の琴線に触れることがあるものだと、繊細な機微について述べているのです。

 死というデリケートな問題を授業で扱うことはなかなか難しいのですが、現代文では小説、古典では軍記物などで垣間見ることができます。それらは〈文学〉だからです。歴史の勉強のように年代や出来事、仕組みだけを追うのではなく、ひとりひとりの人生を追い、その喜怒哀楽や考え方、振る舞い、紡(つむ)ぎだされる言葉などを記録するのが〈文学〉だからです。

 高1の諸君には、今回、『平家物語』「敦盛」を扱えなかったのはとても残念なのですが、「敦盛最期」は現代語訳ででも、ぜひ読んでみてください。源氏の武将である熊谷次郎直実が、わが子と同じ齢の平敦盛を討つ場面ですが、なぜ敵将とは言え、このような少年の命を奪わなくてはならないのかという強い心の葛藤が強く表れている段です。織田信長が舞った幸若舞の「敦盛」、「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり」で知られていますが、「敦盛」にまつわるエピソードは人びとの心を揺さぶる普遍性があったのでしょう。https://bit.ly/379GlnV 

 話を戻しますね。どうも脱線してばかりでいけない。

 この映画に関連して紹介したかったのは、関西学院大学人間福祉学部の藤井美和教授の「死の疑似体験」講義です。

 元気だった学生が突然身体の具合が悪くなり、死期を悟りながら書き綴る直前までの日記を書いてもらうという内容です。その際に、学生は4種類の「大切なもの」というのを書くことになります。①「形のある、目に見える大切なもの」、②「大切な人」、③「大切な活動」、④「形のない、目に見えないで大切なもの」をそれぞれ3つずつ、小さな紙に書きます。自分の体がだんだん悪くなり、いろんなものを手放していかないといけなくなる時に、必要なものを残して、今手放すものを取って破いていくということを行います。最後まで残したいものと、泣く泣く手放さなくてはいけないものとのせめぎ合いを可視化するという講義です。

 先生は受講したことがないのですが、『世界から猫が消えたなら』の映画はその追体験ができる映画だと思います。自分にとって身近で大切な存在が何なのか、普段の私はそれを大切にできているのか、大切な人に元気なうちに会いに行くことができているのか、明日も何も変わらずやってくると思い込んでしまっているのか等々、いつ、この問題について考えるべきかについては、兼好法師ではないですが、「かほどの理、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや」というわけなのです。「この程度の道理(人はいつ亡くなるかなど解らないということ)は、誰が思いつかないはずもないのですが、折が折ですから、思いかけない心地がして胸に響いたのでしょうか。」

 「折からの思ひかけぬ心地して」

皆さんはどうでしょう?








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