駄文)方言禁止記者会見 追記あり

方言禁止記者会見という番組の企画が炎上している。

 これは、いわゆる「英語禁止ゲーム」の構造の援用であろう。だとすると、「どうしても使ってしまうほどに入り込んでいる」からこそ成立するゲームであるという見方ができる。だから、ある意味で言えば、「その人の中にある」ことを前提にしたものであるという見方もできなくはない。

 しかし、やはりここには見えにくい方言間、言語間の差がある。禁止ゲームが成立するには、禁止されても話すことが可能である必要がある。すなわち、言語によって禁止されることによって困る度合いが違うのである。私の場合、英語を禁止されても、和語(または漢語)に置き換えられるので「英語禁止ゲーム」ができる。「日本語禁止ゲーム」は難しいだろう。

 当該の俳優(女優)の方は、埼玉県民役という出身地が属性である役を演じるほどの、現代共通語話者であるから成立する企画であるとも言えるだろう。これが、構造は同じまま、方言・言語を入れ替えるとどうなるか。すなわち、沖縄を舞台にしたドラマを演じた俳優が、演じた沖縄の言葉で記者会見をするという企画である。私は、今回批判される企画よりも難易度が跳ね上がったような気がする。構造は同じはずなのにどういうことだろうか。

 私にも共通語≒首都圏方言話者の傲慢さが隠れている。すなわち、「共通語は話せるはずで、沖縄の言葉は話せないはずである」と考えるから難易度が跳ね上がった気がするのである。俳優(女優)としての仕事に限らず、「そういうもの」だとされていることがあるのではないか。自戒したい。

 今までの文は、「なぜ、母語を禁止する形で、「禁止されるのが困難ではないが、入り込んでいる言語」を禁止することで成立するゲームを模した企画ができるのか?」という問いに集約できる。方言差別について少しは学んだものとして、糾弾・断罪よりはせめてまだマシな「啓蒙」でありたい。そのためには、番組制作・コンテンツ作成の文脈における「蒙(ここでは、企画・ゲーム)」をみずから見つめ直す必要があったと感じたできごとであった。

追記(2024/01/23 23:02)

 英語禁止ゲームという企画を知ったうえで、批判しないといけない、というのが趣旨の一つ。
 方言札の話を出すのは、表層を見て反射的に言っているように見える。反対意見も出ているようだ。
 だからこそ、英語禁止ゲームというバラエティ番組の文脈を抑えて、企画が「方言を使わせたくない」という悪意によるものではないことに気が付き、「気づかれていない傲慢さ」に目を向けるきっかけとするような言葉を世に投げかけたい。

 「歴史を知っていれば、こんな企画は作らない」というような言葉は、多くの人に響く言葉ではないと思ってしまった。これは「お前らは馬鹿で悪者だ」と言っているのと変わらないのではないか。このような強い言葉が衝撃を与えることもあるだろう。上手くいくこともあっただろう。しかし私は、「悪意があるわけではないのでしょうが、その企画がなぜ成立するのか考えてみませんか」と投げかけたい。「言葉を選ぶのは、思いが弱いから、当事者じゃないからではない」と自分では思いながら。

 上にも書いたように、「共通語で話すことができるのが普通だ」と考えていなければ成立しないゲームだからである。
 でも、「この人の言葉の中には、その方言・言語がある」と考えていなければ成立しないゲームでもある。また、番組としては、俳優(女優)だから、自分の出身地の言葉に釣られずに共通語を話しきるのではないか?という期待も、企画の意図にあっただろうとは思う。
 もちろん方言差別の事実が周知されているとは思わない。現在根絶されているとも思わない。だから、強く啓蒙する必要は残る。
 しかし、相手を無知で悪意のある人間であると扱わないようにしなければならない。自分は気をつけようと思う。


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