誰も傷つけないよう慎重に作られたコンテンツの価値

SNSでは定期的に、現実と虚構の区別についての話題が盛り上がる(というか、この話題の周辺には常に、大なり小なりの炎が上がっている)。記憶に新しいところでは、被虐待児の少女が男性に「望んで」誘拐されるという作品の実写化に批判の声が集まり、関東でのみ放送を中止した。
あの物議は、「性犯罪者予備軍のオタクを叩きたいPTAおばさん」VS「現実と虚構の区別がついてないのはお前らだと反発するオタク」みたいな単純な対立構造なのだろうか。
お互いに「オタクの男は気持ちの悪いもの」「母親は全てを阻害し自分を去勢するもの」という先入観があるように思う。局地戦争というか、ほとんど親子喧嘩だ。双方、自軍には多様性があると主張する一方で、対立相手は画一的なステロタイプの敵と認識している様子だ。

私は子供を持つオタク女なので、双方の言い分いずれにもごく一部だけ賛同するし、大半の部分に異論を持っている。
放送反対派の「実際の事件を想起させるような作品は自省すべきだ」という言い分は、コンテンツの中身をみない無粋な主張に見えるし、それに反発するオタクの「外に向けてポリコレ棒振り回すなら、お前の子どもからは全部取り上げてしまじろうだけ見せてろよ」という言い分も、それはそれでずいぶんと幼稚な主張であるように思う。

「誰も傷つけない娯楽なんて成立しない」と思っている人が、少なからずいる。そういう人にとってみれば、誰も傷つけないコンテンツは味のないつまらないモノなのだそうだ。
私は逆だと思っている。娯楽のすべてが誰かを傷つける前提で作られている場合に限り、「誰も傷つけない」という特徴のみで評価されうるつまらないコンテンツが成立するのだ。人を傷つけないよう配慮することと、娯楽としての面白さは相反しない。

実際、国内では、渡辺直美やサンドイッチマンなど、自虐にも他虐にも頼らない芸人が若い世代を中心に人気だ。
海外に目を向ければ、MARVELには補聴器を着けて戦うヒーローがいて、とあるヴィランは車椅子に乗っている(そして、悪くて強くてカッコいい)。最近ではアフリカンのヒーローも登場した(とてもかっこいい)。ディズニーは世界中の女の子の「プリンセス願望」を知った上で、自ら立ち上がる雪の女王やマオリ族と共に戦う少女を描き、ダイバーシティのジレンマを肉食動物と草食動物のいさかいを通して語った。
ここに上げたコンテンツはすべて、「特定の誰かを踏みにじること」を慎重に避け、あるいはその行為に警鐘を鳴らしながら、娯楽作品としての鑑賞に耐えうるクオリティを持っている。価値観が磨かれた結果、時代が要請して生まれた進化系の娯楽だ。
こういう作品は、「オタクvs PTA」の幼稚な非難合戦からは生まれない。

英語圏の批評用語に「マジカル・ニゲル」という言葉がある。クラシックな洋画作品によく出てくる、白人主人公のために力を尽くす「有能で役に立つ黒人」のことだ。製作者の安易さ、ストーリーテリングの陳腐さを揶揄するために使われる言葉だそうだ。日本で近いものは「感動ポルノ」にあたるだろうか。
オタクコンテンツにも、これに近い言葉が必要だと思っている。これは多分、ジャンルを愛するオタク側が持っているべきだ。「コンテンツなら何が何でも無罪」とは誰も思っていないのだから。
現に「けものフレンズ」の監督降板は炎上騒ぎになったし、「封神演義」のリメイクアニメにも批判が出ている。作品の本質を損なう改変が非難されるのであれば、コンテンツの本質を語る、枝葉の表現にこだわらない議論だってできるはずだ。…オタクは文脈を読む生き物なのだから。

私には正直なところ、例の誘拐マンガは「魔法のiらんど」系のケータイ小説と同程度のものに見えた。学習商材やカルト宗教の勧誘マンガに近い。そのぶん、ごく一部の層から絶大な支持を得るものになっている。
幼稚な成人男性にとって、自分よりも無力な子供との共同幻想はさぞや気持ちが良いだろう。だからあの作品は、大人が子供を都合よく消費する装置になりうる。
「かわれるよ 現に俺は変われた」で検索すればすぐに出てくるあのマンガと同じだ。あれで救われる人もいるのかもしれない。しかし、あれが実写化されて全国のお茶の間に流れる時が来たとき、擁護するマンガオタクはいるだろうか?

#幸色のワンルーム #ポリティカルコネクトレス

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